利活用の並行の改修―友禅の作業場 -上京区・高橋邸末川 協(再生研究会幹事)
おそらく仕事場がその役割を終えた頃、縁先の増築や前栽の子供部屋、浴室など、敷地の裏半分に建て増す工事が行われた。雨水がどこに流れていいのか分からないほど、ぎゅぎゅう詰めの板金で覆われていた。一方主屋大屋根の無数の雨漏り、10cmを超える不陸や傾きは放置されていた。汚水桝の底が抜けた便所のウォシュレット、床の割れた浴室の暖房乾燥機が先の借り手の最後の「リフォーム」だった。 さて、ご本家の社長も含めたご相談の内容は(1)この状態で町家が直るかどうか。(2)お金はどれくらいかかるのか。(3)新しい借り手が現れるかどうか。 お答えは(1) 間違いなく。(2)調査の上概算可能。(3)根拠は無いですが、町家の将来性と協力者を信じていただきたいと。 ともかく町家を残す前提である限り、状況に待ったはなく、一緒に相談を受けてくれた若手大工親方が、すぐに大屋根に養生シートを掛け、隣家に落ちる塀瓦を降ろしてくれた。社長もお姉さんも、家主の責任は十分ご承知の上、ご近所への挨拶へも急がれた。息子さんや、甥っ子さんや姪っ子さんも含め、この町家にこれからも関わるご家族ご一緒に現場で改修内容の確認と意見交換を行われた。 ご縁は根拠無く京都的につながり、担当の情報センター会員のお宅が、ご本家のお向かい、設計と見積もりが出来ると同時に、家賃とターゲットを想定し、募集要項を作ってくださった。何人かの賃借希望者が見学に現れた。固い気持ちの応募者が、面談を経て申し込まれ、設計の詰め直しが行われた。工事の前に賃借が決まることで、活用のイメージを頂き、設備の容量や改修の範囲を無駄なく確認することが出来た。 改修工事ではいつも個別の町家に伴う歴史が垣間見える。元のトオリニワの間口は1間半で、特殊な御商売の町家であったこと、明治期のツシ2階が、おそらく大正期に中2階にされ、2階オクにも座敷が出来たこと、大戦直前に西の妻壁の一部が落ちた理由など。
多くのご近所の方々のほか、筑波大の留学生、タイのチュラロンコン大学生、京都の建築専門学校生の見学を頂けた。ガラ出しや荒壁付けで町家の再生実践に参加頂けた。最後まで町家の内部はスケルトン、その構造と直すプロセスを見て頂けた。 足場をばらした日に、お姉さんが甦った町家の姿を喜んで、遅くに訪ねてくださった。真新しい腰高戸を見て「あたしが小学生の頃はこの戸を拭くのが仕事でした。それが済まないと学校に行かしてもらえなくて。森嘉さんで豆乳をもらってきて毎日拭いていたんです」。その思い出のように、この町家もこれからも永らく大切に手入れされますよう。合板をめくり畳を上げると、とりどりの染料が舞い上がり、調査のたびにピカソのアルルカンのようになった姿がおかしかったことを思い出す。 |
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2009.11.1 |