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京町家再生研究会

四条通の御茶屋の復元 ――祇園南町Im邸

末川 恊(京町家再生研究会幹事)
 昨年の7月初め、祇園祭の準備に追われている最中、仲良しの大工親方から町家の改修について一緒に相談に乗ってほしいと連絡があった。彼は京都市景観・まちづくりセンターの専門相談員の役を受けており、そこでの相談案件だそうだ。場所は四条通の南側、大和大路と花見小路の間で、内外の観光客で賑やかなところ。前祭の直前にお話をお伺いに行った。

 建物は袋路地を持つ1階で間口3間の二連棟、路地奥の4軒の町家とともに明治期の築造であった。元々は御茶屋の建物であった。2階のナカノマが板間で舞台に使われるため、それを前後のお座敷が囲む形のプランであり、四条通りのアーケードの後ろ、2階オモテの後付けの面格子の裏側には御茶屋格子の欄干がそのまま残されていた。祇園で有名な履物屋さんが3代に渡り店子として営業を続けてこられたが、100年ぶりに空き家になった。Im氏は路地を囲む6軒の町家のオーナーであり、四条通に面した店舗やギャラリーの改装も行ってこられたが、現代の工法による改修に飽き足らず、景観・まちづくりセンターに相談に出向いたと言う。そこで紹介されたのが我々という訳で、センターの担当者には感謝深く思う。

 Im氏は、清水坂のマンションを息子さんに譲って、この町家に住まれるおつもり、そのための水廻り等の改修と、1階オモテの2間をご自身で店舗にすることを望んでおられた。打合せの後、建物の調査と実測を行った。東京炊事にされたハシリの床をめくるとダイドコの下に6畳ほどの大きな地下室があった。戦時中に掘られた防空壕より明らかに古い。Im氏も存在は知らなかった。同じ時期に改修をお手伝いした同じ祇園の花見小路の御茶屋さん(永らくギャラリィとして活用)にも大きな地下室があった。そちらは漬物置場と呼ばれていたので、よくもまあ、昔の人たちは漬物を食べていたのだと感心したが、大工親方から聞くところによると、蔵のない御茶屋では火事のときに家財を避難させるのに地下室を設けていたそうだ。石積が大黒柱の足元で崩れていたが、ともかく砂漆喰で仕上げられた曲面の壁は年代を経て美しく、ぜひ店舗の一部として活用したいとの結論になった。箱階段も立派に残っていた。

 建物の調査では、小黒柱を中心に放射状に建物の沈下が見られ、先の大黒柱の基礎の据直しを含めほぼ全数の柱の上げ前が必要なこと、主屋、水廻りとも屋根が築造時から差し替えのみで修繕が続き、下地も含め葺替え時期であること、排水も路地を含めて土管のままであることが分った。1,2階のハシリの側壁に間中のずれがあり、2階の胴差が持ちこたえられずに重量鉄骨で補強されていた。大壁に改修されており築造時からの構造なのか分らない。先の店舗の改修により、オモテ大黒通りの通し柱が切られてヒトミ梁が抜かれていることも分った。7月末に調査の所見をまとめてお伝えし、建物の存続を目指すならば、構造も含めて全面的な改修が必要であること、予算と工期をお伝えし、建物外観を(ヒトミ梁や庇の復旧を含め)元の御茶屋に戻す提案を行った。Im氏にはすべて即時了解を頂き、設計着手を前提で実測の続きを行った。Im氏もお酒が好きで、路地の一軒の1階をバーに改装され洋酒がずらり、時折の夕方の打合せの後はそこで「まあ一杯」から始まることもあった。

 設計の期間中もIm氏は精力的に町家やそれを取り巻く伝統構法について学ばれた。打合せの後、食事のお伴を兼ねて、祇園や先斗町を歩いては町家の格子、駒寄、樋のアンコウや金物、一文字瓦の種類や地域差についてお話しする機会を頂けた。ご自身で見つけられた改修事例や改修中の他の現場について意見を求められることもあった。花見小路界隈は、近年観光客でシーズン関係無しで混み合い、店舗に改装される御茶屋や町家があちこちで見受けられた。外観は綺麗になっても、構造については現代の工法で改修されていることが100%、中には重量鉄鋼で構造を架け替えている例もあった。その中で伝統軸組、伝統構法の復権に拘りながら改修を続けることに理解を持って頂けたかと願う。設計の打合せのたびに建物を訪れると、床に養生用のテープであちこちにマーキングされている。伺うと設計図の寸法を現場で原寸に落とし、実際の感覚を確認されていた。時に打合せにみえる奥様も「家で設計図ばっかりみてはるんですよ」と。設計冥利に尽きる。

 果たして昨年11月には設計完了、工事に向かう運びとなった。店舗とは別に路地の中にも居宅の玄関の設えを、火袋の2階の側壁の下には柱の新設を計画した。解体では屋根の垂木にすべて和釘が使われていたこと、もとの御茶屋にも祇園祭のための幕掛けがあったこと、築造時の四条通が20cm以上今より低かったこと、ハシリの奥の通し柱も切られていることが分った。側壁の1,2階のずれはおそらく築造時からのもの、ただしこの胴差のみ米松が使われており蟻害の跡があった。今年の4月末までが契約工期だったが、別件のずれ込みや、応援大工の急要や、若手大工が交通事故に巻き込まれたりで、連休明けの目標が5月末になり、6月の六本木ヒルズへの遠征までが祇園祭本番までになり、実に引き渡しは8月末、だだ遅れの改修となった(追加工事も今までの改修で一番多かったが)。そんな中、ほぼ毎日Im氏は現場を訪れ、大工以外の各職の仕事ぶりも確認され安心されていた。油絵を趣味とされるご自身は各所のベンガラ塗り、四条通の養生用の合板の塗装、2階の格子の洗いなどに加わられた。周辺の商用の町家改修現場では考えられないことだと感謝深く思う。

 四条通の顔であった西洞院の町家が取り壊される中、四条通に再びかつての御茶屋の姿が復元された。伝統構法が存続する限り町家の再生産は可能だ。それを信じる大工や職方、設計に信頼頂けた施主に感謝します。


2015.11.1