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京町家作事組



 その1
 佐藤嘉一郎(作事組 顧問)


●改修の心構え
 京町家再生運動の流れも近年にいたってようやく町衆の関心が高まり、各種の催しにも多くの町衆が集まられる事が多くなった。住まい手の方々から御意見や質問が出されて、意匠、資材、さらに改修に関する規則や工費などに対してそれぞれの専門家が対応しておられるが、我々仕事に携わる者には、最も重要な町家の構法、あるいは工事に従事する現場の職方への対応や技術に関するご質問が少ない事が意外である。完成した建物の評価に最も大切な「出来栄え」については、万事工務店や職方任せで大丈夫と安心しておられるのか、または仕事の良し悪しを御存知ないか、さらには全然無関心で契約して金さえ払えば図面通りの工事が完成されていると達観しておられるのか、いずれにしてもそれは大きな間違いであると御忠告申し上げたい。

 それは何故? どうすればよい? と問われると答えに窮するが、職歴六十余年ずっと建築工事にたずさわって生活をしてきた自分でさえ、的確な回答は難しく、先代さんから受け継いだ住家や、念願の町家を購入してやっと持家に住めるようになった若い施主さん方に解らないのは当然である。町家工事、特に新築でなく相続や古家を取得され入居される場合は、気分一新と不良箇所修理を兼ねて、町家のリフレッシュを考えられるのが普通であり、入居後の大改修は困難かつ無理な事なのである。

 戦前は、借家に新入居者が決まると家主さんが壁や畳・建具等を改装して清々しい住居として新借主に提供するのが普通で、それだけ家賃収入が多く、資産維持の一つの投資対象として借家と言えども大切に管理されたのである。

 もちろん、古い借家の老朽化や破損は宿命であるから、それなりに最も合理的な対応があるのだが、近年この対応が拙(まず)くて施主と職方とのトラブルとなり、その信頼関係に歪みが生じている事も少なくない。それは修理保存されるべき町家が、改修の手間や工期、予算や積算の不透明さで工事が敬遠されたり、施工者側からも手っ取り早くて見栄えのする新築への建替えを勧める声も多い。すなわち手間をかけて目立たない改修(つづくり)工事より、実績も上がり、熟練者でなくても作業の進む、新築(それも外地材や化学合成品を大量に使った既成の規格化したプレハブ形式のもの)で、近年都鄙(みやこいなか)を問わず、全国的に群がり出しては町並みを乱し、国土の景観を破壊する要因の一つともなっている。施主や施工者の双方に言い分はあろうが、左官職の家に生まれ、町家と共に日々生きてきた一人として、難しい規則や新しい構法、デザインは他の専門家の分野であるが、改修工事の現場で働く職人(労務者)の立場からの一言として聞いて頂きたい。

●職方(職人さん)との接し方
 戦前の工事現場には、「職人」と言われる事に一種の誇りをもつ人達が多かった。中には世間から蔑視されるような不心得者もあったが、大半は落語や芝居のネタにされる熊さん、八つぁんタイプのお人好しで仕事には自信があり、多少の男気があって義理堅い反面、金銭感覚は最低で年中貧乏である事を自慢にし、気持ちが合えば身銭を切ってでもサービスをするお人好し人間である。こんな種類の人は戦争で消滅してしまったが、その気風はまだ現場に残されていて、この美点・弱点(?)を施主さんや使用者(親方)が上手く利用する事が、建築のような衆の力と技を合わせて建て上げ、工事を成功させる秘訣の一つである。

 古い諺に「人を使うのは苦を使うより難しい」とあるが、甘やかすとつけあがる、抑えるとすねる、金を頂くまでは自分のものと強がりを見せるなどの欠点も、裏を返せば仕事に愛情をもつ気持ちの表れである。二度と同じ仕事に出合わない作業の実態は「日々是新」で、常に変わった段取りに対応し、また未知の事態に対応するので「仕事は死ぬまで勉強」と教えられたものである。

●職方は町医者
 この事は立場を移して他の職業にたとえると、町家の修理は人の病気とよく似ていると思う。ビルや公共施設などの大工事は総合病院に当たるゼネコン。一方、住居のちょっとした改修やつづくりは街の開業医の先生の方が見立てや治療が行き届くというわけで、近くの工務店や大工さんにまず相談というのがお薦めメニューである。諺に曰く「鋳掛け屋に軍艦は直せないし、造船所では鍋釜は出来ない」または「餅は餅屋に」などと、なかなかうまく言ってのけたものと、先人達の言葉には誠に敬服せざるを得ない。

 町家の修理改造は俗に「つづくり仕事」と呼ばれ、見栄えのしない裏方的な仕事で若い職人達は敬遠しがちな仕事であるが、実際はつづくり仕事が出来れば一人前とまで言われるような難しい仕事であり、新築工事をいくつか施工してはじめて手掛けられる工事なのである。そこには無名の先人たちの技と知恵が凝縮されており、五十年、百年生きてお役目を果たした建物を、我々の手によって、また五十年、百年の寿命を延ばす仕事である。三十年くらいは大丈夫としか保証のないハウスメーカーの住宅、あるいは耐久性は五十年と宣告されたマンションなどは大型消費材であり、産業廃棄物の予備軍である。一方、土、木、竹、紙等の自然素材を経験的構法によって組合せ、施工された木造建築は、千年の存続も可能であるが、それにはそれだけの熟練した職方の技と、愛情ある日々の管理が必要であり、それは建物を愛する施主と仕事を誇りとする職方の出合いが肝心なのである。その仲人的役割を果たすのが我々再生研や作事組、友の会などであるが、町衆への周知はまだまだであり、今日でも町のどこかで京町家の毀(こぼ)ち(解体)や、間違った改悪修理が行われている。

 親身に病人の心配をしてくれる町の開業医と、綿密な検査で時間を費やす総合病院同様、ゼネコンと、町の工務店・大工さんの考え方では、各々の事情があって双方とも間違いとは言わないが、組織と職方の素質、技術をどのようにすれば上手く活用できるかが改めて問われている。これは普請に慣れた施主であれば問題ないが、建物という大きな買い物を初めてされる施主にとっては大きな冒険であると思うからである。