◎7月の報告
[ 高山市 町家改修事例の視察 ]
見学コースは船鉾町家を起点に新町通を北上し釜座町町家までとした。説明対象は作事組が関わった改修・活用事例だけでなく、町家が壊されて町なかが宿屋化する観光地としての負の側面も見てもらえるようにした。 町中見学後は釜座町町家見学の後、改修記録のビデオ視聴と意見交換を行った。そこで高山では重文等の町家が他所からの手で改修されて地元が関われないこと、改修を担う職人が少ないこと、同じ伝建地区でも観光地として脚光を浴びる地区とそうでない地区に二分され、格差が生じていることなどを伺った。こちらからは作事組を起こした理由、後進の育成及び伝統構法に基づいた改修作法、そして作全協、町家再生交流会及び町並みゼミの活動の紹介をし、高山でも同様の取り組みや全国活動への参加をお願いした。 時間がなく先方の課題が充分に理解できなかった。後日視察の理由である町家の改修及び活用の課題について問い合わせ、資料を送付していただいた。高山も例にもれず地場産業の衰退、少子高齢化による地域存続の不安を抱える。取り分けて大学や専門学校がなく、若者の定着率やUターン率の低さが問題視されるなか、市が買い取った町家を若者の活動拠点として整備しようということであった。町家は重文の吉島家や日下部家と同規模の大型町家で、計画段階から地元高校生やまちづくりに協力してきた大学生を参画させるという。立地は観光でにぎわう三町と観光客が少ない下町の境界の下町側にあり、回遊性による下町の観光活性化ももくろむ。 日本のどこに行っても立派な町家や美しい町並みが残るないしはその痕跡がある。それを作り守ってきたのは物資の集散、中継地、交通の要衝、特産物やものづくりとその商い、たとえ中山間地で一次産業のみの場所であっても社会的安定のなかで、長年の蓄積と貨幣のみに頼らない結などの習わしである。総じて地場産業がその担い手であった。産業構造や交通手段の転換、習わしの衰退などにより作り守ることも衰退した―スムーズに近代化への転換が図れたら消えてしまったかもしれないのだが―。 そして立派な町家や美しい町並みを残す時代になった。しかし守り続けるためにも新たに作るためにも地場産業が必須である。高山市の試みを見守りたい。京都も例にもれないのだから。 (京町家作事組監事 梶山秀一郎) [ 京町家体験講座第7回「庭師と訪ねる京町家の庭」 ]
参加者には、総合的な町家学習を継続していらっしゃる住まい手や、ご自宅の造園を計画中の方、造園家、三井家の歴史に惹かれてという方もいらっしゃった。 まずは釜座町町家の庭の構成要素を見ていただき、造園前の写真と比較しながら、造園者の意図を解説した後、六角町の三井家庭園跡地へ移動した。 三井家の露地は、町家の庭の有力なルーツの一と考えてほぼ間違いないという仮説のもと、民家譜にある三井家の図面を拡大して、現在の庭園跡に立って往時の姿を想像した。三井家の建物と露地が残っていた頃をご存じの無名舎吉田孝次郎さんにお話をお聞きし、説を裏付ける記憶をたどった。木村さんによると、木津川の燈明寺にあった鎌倉時代の重文クラスの石燈籠が、寺の資金繰のために売り出され、六角町の三井家に移されてあった。その名物灯籠は現在真如堂にあるが、流石、日本を代表する財閥であり、江戸から続く京商人の歴史文化へのまなざしは確かで、灯籠にもしっかりと目が利く人によってつくられた庭であったことが覗える。 木村さんは町家の庭は、茶の庭である露地が原型であることを形態と実用の面から話され、景色を眺めるための庭と位置づけたが、吉田さんは、町家の庭はまず、住まいに風を通すことを考えてつくられたというところに力点をおかれた。表屋造りの吉田家は間口が10mあり、奥行き38mに中庭と奥庭があり、そこに緑と水があって、居室で十分な風の流れが感じられるので、ガラス越しに眺める庭ではなく、この暑かった京都のまちなかでも空調一切なしで快適に過ごせる時間を体験していただけた。明治40年代の板ガラスの流行と庭のブームには関係があるという解説もあったが、吉田家は明治42年上棟で奥座敷と庭のあいだに板ガラスはない。祇園祭の本格的なしつらいを次週に控えて、家と庭の魅力もさることながら、長年続いてきたお祭りの風情をそこはかとなく粽や軸で伝えてくださった。 (京町家作事組事務局 森珠恵) | 釜座町地蔵盆 |
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作事組活動実績 ■ 工事実績: 251件 ■ 相談件数: 662件 ('99年〜'18年7月31日現在累計)) |