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京町家作事組
町家再生再訪・その8

胡乱座

(担当:アラキ工務店、NOM建築設計室)<第4話>
  住み手がいなくなった町家は、宿屋レストラン、ショップ、地域コミュニティーのための施設など、日常的な生活の場以外に活用されることが多い。若者には「やべー」「かわいい〜」、中高年には「懐かしい」「癒される」と言われ、それなりに人気が続いている。

 町家は現代に生きる私たちに様々なことを語りかけているように思う。人々の暮らし方は文明や物資によって時代とともに変化し、それに合わせるように町家も様々な形に改装され、作り変えられている。それらの変化を丁寧に観察すると、町家の語りが聞こえる。これらの語りを「カワイイ」や「癒される」といった単純な言葉に置き換えてしまっていいのだろうかと思いを巡らす。
 
 使い続けることや、修理して使うことがどんどん失われていく現代において、100年も200年も前からそこにあるもの、使い続けられているものの中に、理解しておかなければいけないもの、失ってはいけないものがあるように私は思う。

 町家が観光客を呼び込み、それが収益に繋がることに目をつけた行政は、やっと町家を「活用」するための保護に乗り出した。観光資源として「活用」するための保護である。
 
 町家は、年間およそ800軒も解体されている。行政は、町家の解体に対して事前申請を義務化しようとしているが、所有者の権利が強い日本で、これが解体の抑止力として機能するのだろうかと疑問視してしまう。また、登録すれば改修に補助が受けられる制度も存在するが、住むために必要な内部構造の改修に補助金は出ず、外観の改修だけが重視されている印象が強い。私は、このような観光資源としての一時的な活用や改修だけではなく、人が住む場所としての再生がなされるべきだと考えるのだが。
 
 住まいとしての町家には「かわいい」や「癒し」だけでなく、生活の便や不便、自然や不自然、調和、不調和を感じられる日常がある。それが本来の町家であり、住むための家である。そして住むためには住み方を知る必要があり、学ぶ必要がある。学ぶことにより、先人たちの知恵や工夫、現代とは違う暮らしぶりが見えてくる。  しかし、町家の日常を知り、不便さを味わってきた世代は、町家の運命を決める権限を持つ世代の人たちでもある。彼らに嫌われた町家どんどん壊されていく。それでもまったく希望がないわけでもない。最近は、エコやミニマリスト、スローライフなどを考える若い世代が現れ始めた。町家を残し、活用を望むなら、町家がいかにかれらの考えに合致した建物であるかをアピールし、活用を促さない手はないだろう。ひょっとすると、命ある再生がそこに芽生えるかもしれない。
 
 もちろん、外観は町家で内装は現代の建物が良いと思う人たちのような、町家の捉え方が大きく違う人たちへの意識改革のアプローチも重要であるが、消費至上主義社会にならされた彼らの意識や価値観に変化をもたらすことは一筋縄ではいかない。彼らに悪気があるわけではない、彼らの価値観は消費至上主義社会に振り回され、流行や憧れだけで町家を選ばされていることに気づいていないだけだと私は思う。
 
 また、カフェや宿などの店舗としての町家の活用は、消費至上主義社会に馴染んだ人々を取り込み、喜ばせ、消費を促すことには貢献するだろうが、人々の意識改革にはつながりにくいと感じる。
 
 コミュニティー施設としての「活用」は店舗としての活用に比べれば、意識改革につながる可能性は大きいと思うが、維持管理に費用がかかり、責任の所在が曖昧になることで、淘汰されてしまう弱さを秘めているように感じる。
 
 こう考えてくると、町家が本来もっている文化や習慣が自然や必然で学べる「活用」のあり方は、やはり住まうことだと思う。便・不便も含めた住まいとしての町家が受け継がれ、「活用」されてこそ、町家の再生が見えてくるのだと私は思う。断っておくが、町家に住むということは、生き方や価値観の見直しを迫られる覚悟が必要である。そういう意味では、住み手自身の「再生」であるかもしれない。

(文:胡乱座あるじA 大橋英文)
(2017.9.1)


(取材後記)
 絶えず流れ込む異文化を合気道で受け流すようにして町家の生活を守り育てていらっしゃる胡乱座あるじAさんとBさんの15年間の結晶のような文章を読み、沢山の声や場面に思いをめぐらせていると、私の日常に埋もれていた澱が浮き上がって2017年夏の禊になりました。

 振り返って、2008年に京町家再生研究会の小島さんとワールド・モニュメント財団との出会いから京町家再生の協働プロジェクトがはじまり、作事組は町家再生活動のコミュニティ拠点として釜座町町家をお借りすることとなりました。2010年に行われた改修工事では、明治期の建築当初の形を基本として、大正時代に拡張された寄合のための広間が保たれ、昭和に増築された部屋は撤去され庭が広がり、水回り等の現代の設備、新設のギャラリーができて現在の形となっています。外観の意匠は古い痕跡から虫籠窓が復元されました。その後、2014年の祇園祭大船鉾復興、後祭の復活を経て、鷹山の復興に向けた動きが進む2017年の地蔵盆の夜のこと、釜座町は寄町として鷹山保存会に協力する立場から、虫籠ではなく二階囃子に適したオープンな形もありえたかもしれないという建築家の呟きを耳にしました。虫籠窓のデザインは、分をわきまえ、二階から通りを見下ろしてはいけないということから生じたとされていますが、釜座町町家は、京都を求めて様々な人が訪れる場所で、よそものも受け入れる懐の深い京都の風通しのよさが感じられる町家です。

 カフェもまた広く緩いコミュニティをつくれる場所としてあり続け、町家が文化交流の場所として発展していくことを願っています。

(取材・構成:京町家作事組事務局 森珠恵)