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京町家作事組
町家改修設計の勘どころ・その2

町家改修のデザイン

 2回目は、冨家建築設計事務所所長の冨家裕久氏に、改修のデザインについてお話を伺いました。

◎町家の通り景観のデザインの緩やかな変化

 京町家のデザインといっても幅は広く、ひと言で語るのは難しいですね。現在京都に残っている建物のそのほとんどが蛤御門の変の大火で焼け野原になった後の町並みが始まりの一つの区切りで、一部は焼けていない地域もありますから江戸末期の建物もあります。そこから昭和25年の建築基準法の施行が終わりの一つの区切り。でもその後も全く建っていないとは言えないと思いますが、この約80年間の時代の建物ではないかと言えます。平安時代からの変遷を追っていくと途方もない量のデザインのお話しになるので、この80年間、明治・大正・昭和初期の大きく3つに分けた時期が考えられます。現在現存している各時代の建物を時系列に並べると、ゆったりとした緩やかなデザインの変遷が伺えます。それはまるで町家の遺伝子が受け継がれていくかのような、違和感のない変化です。しかし戦後から現在までの70年間の建築のデザインの変遷がどれほど異様なものか比べてみればよくわかります。突然変異ばかりの変化なのです。町並みが崩れて当然ですね。

 通り景観の観点から、明治初期から建物個別に見ていくと、表は2階の階高の低い建物が多く、古いものだと土壁のみのデザイン、少し高い階高だとムシコ窓と言われている土塗り格子が入っています。1階の出格子なども格子のみでガラス戸は無く、人見梁の下で雨戸ないし障子が嵌っています。少し時代が経つと、2階の階高も高くなっていきます。ムシコ窓の内側に建具が入って、換気重視の空間から居室扱いの空間へと変わっていきます。出格子も格子のすぐ内側でガラス建具が入ったりしてきます。板ガラスの普及に合わせた生活環境の向上に向けた変化が生じてきます。更に時代が経つと、2階の階高も立てるぐらいに高くなり、2階はムシコ窓だけでなく、ガラス建具がそのまま入った建物がでてくる。私の自宅西陣周辺の街並みを見ていると、2階階高が上がっても一階の断面形状は昔のままなので2階が間延びしたようなプロポーションが多く見られる中、この間延び感を解消するデザイン手法に開口部上下に長押を付けて大きな面を分割する方法が見られます。同じ階高でも長押の有るものと無いものが入り乱れた景観があり、試行錯誤、変遷の時期と思われます。大正後半から昭和初期になってくると、必ずしも出格子が使われることは無くなってきます。いわゆる「近代町家」の腰壁付の出格子とでも言ったらいいのでしょうか、高さ1mほどの腰壁上部には軒先の高さまで木製ガラス建具が嵌り、その外側には丸パイプや丸棒などで格子が作られたものが見られるようになってきます。腰壁には花崗岩の一枚板を使う建物や左官の洗出し、昭和初期に流行ったスクラッチタイルなどが特徴ですね。表の間の床の一部として内部空間に取り込まれた形状です。

 この80年間の町家建築は過去のデザインを踏襲して生活に合わせて変化してきたからこそ、明治の建物と昭和初期の建物が隣接していても違和感がないのだと思います。

◎町家改修のデザイン

 作事組として町家の改修をしていくということは、町家の本来あるべき姿に戻すという理念から始めます。そのためには建物をよく観察し本来の姿を読み取ることが肝心です。建物によっては、何度も改変を行い、場合によっては大黒柱が切り落とされているなどの大きな改変もあります。建物正面の意匠も看板建築への改変などによって元の姿が隠されていたり失われていたりすることもあります。観察調査によって、いつの時代の建物であるのかがわかれば次に復元考察が非常に重要になってきます。時代によるデザインの違い、時代以外に地域的特性によるデザインの違い、簡素で意匠の繊細な構造の町家ですが、中には柱の太い建物もあります。そういった読み取りによるデザインと町家本来の機能性や暮らし方を施主と共有していく過程が大事です。再生案を共有していく過程ではただ単純に建築当初の姿に戻すということだけではなく、例えば昭和初期に建った建物でも明治時代の出格子を入れることもします。そして町家を再生していく理念を共有して長く住み継いでいただきたいと願っています。

聞き手:森 珠恵(作事組事務局)

設計士プロフィール
冨家建築設計事務所 所長 冨家裕久

京都市出身。京都造形芸術大学大学院卒。
高校生の頃、修学院離宮周辺の散策が好きであったこともあり、自然と建築の関係が好きでランドスケープを目指すのが発端となった。
大学では建築を学びましたが伝統建築とは無縁でした。
大学院を卒業するころ、実家の家業である西陣織の社会的状況が厳しく、過去の「伝統産業」華やかな時代は終わり西陣地区の 景観、町家のある街並みの崩壊を痛感し、町家が「伝統」建築と名付けられることに西陣織の時と同じ危機感を感じ、保全再生に力を入れるようになる。

(2014.7.1)