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京町家友の会
友の会会員さんのお宅訪問
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第5回滋賀県大津市比良東籬庵
文:波多野美智世 京町家友の会会員
写真:奥村一弘 京町家友の会会員

●比良山の懐に建つ庵

東籬庵 全景
 8月3日・猛暑日が続く週末、16名の京町家友の会会員がJR「比良」駅に集合。梓工務店社長・伊東さんのお迎えを受け、三台の車で比良山麓の別荘地、少し奥まったところに佇む「東籬庵」に向かいました。
 まずは、この庵の施主であり平成16年から4年間この家にお住まいになられていた、京町家友の会会員の田上三郎さんと、施工主伊東さんのお二人からお話を聞くことに。
 それに先立ち「東籬庵」という庵の名前の由来について田上さんにお聞きすると、陶淵明の「采菊東籬下 悠然見南山」〔庵の東の籬(まがき)の傍らに咲いている一枝の菊を采ろうとすると眼前に名峰の南山が悠然とそびえている〕という漢詩から命名されたとのこと。籬とは竹や柴で荒く編んで作られた垣のことですが、当初は西側に竹藪があったそうです。雄大な比良山地の景色と共に、自然の木々に守られるように建つ庵の名前は忘れがたいものとなりました。

●伝統的な石場建て構法による

煙出しの窓を開け、風を通す田上さん
 さて、その木々の息吹を感じながら、まずは伊東さんに、映像を見せていただきながらこの庵が完成するまでのお話をお聞きしました。
 「石場建て構法」という150年以前の江戸時代までの構法を取り入れたもので、現地で出てきた石を掘り返して集めそれらを基礎にし、筋違は使わず木組みのみに挑戦。荷重が均等に収まり傾かないように木組みを造り、自然の石の凹凸に合わせて加工した柱をその石の上に真直ぐに下ろして立てるという方法。建物全体の木組みの計算は8年前の当時は大変難しく、大黒柱に差し付ける17本の梁は勘で差されたとのことでした。中世から近世にかけての社寺仏閣の建造物のほとんどがこの「石場建て構法」によるもので、地震や大風にも耐えてきた力強さがあり、日本特有の風土の理にかなったものであること。

家を語る田上さん(左)と伊東さん(右)
 200年、300年と受け継がれる家、健康的で丈夫な家を追い求めた伊東さんが行き着いたのは、金属や合板を使わない木組みの伝統構法でした。一方田上さんの注文は、西側に比良の山々を借景にした九十度大開口の座敷と濡れ縁を作ること。そして囲炉裏のある吹抜けの板の間から二階座敷を見上げた風情を、京都に建つ「河井寛次郎記念館」風に、という二つでした。この吹き抜けの「合歓の間」は富山県の『枠の内造り』、座敷の上部は『船櫂造り』小屋組みは豪雪地帯の民家様式『与次郎組み』と様々組み合わせた木組みの家で、1年2ヶ月かけて完成しました。造り手の伊東さんにして「この家に勝る物件が未だ無い」と言わしめたこの庵は、「職人と関わっていくことが家作り・人が人を継ぐ」という田上さんの想いと、「木組みは人組心組み」という伊東さんの想いが見事に形になった家となりました。

●素材を味わう昼食と自然を楽しむ

おくどさんのご飯とおばんざいの昼食
 お話をお聞きした後は、現在この庵で営業なさっている、「クウ・フランカフェ」手作りの昼食を頂くことに。おくどさんで炊かれたご飯と、本来の素材の味をしっかりとらえることのできるおばんざいの数々を口に運びながら外の緑を目にしていると、風と共に時がゆったりと流れるのを体感できるようでした。
 食後は皆さん家の中や外のテラスに出てそれぞれの風景を楽しまれている様子。会長含む3人の男性方は、歩いて数分の所にある天然温泉施設「比良トピア」に行かれることに。残った全員は再び座り直しコーヒーを飲みながら、田上さんを囲んでの話に花が咲きました。ヒグラシの鳴く中、伊東さん達にお礼を告げ庵を後にしました。
 自然と共に生きてきたはずの日本人。人の繋がりを大切にしてきたはずの日本人。
 今一度立ち止まって足元を見つめなおす必要があることを「東籬庵」は教えてくれたようでした。