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京町家友の会



夏の思い出 伊藤 俊子


 今年も早や夏が来て、七月十七日は、祇園祭巡行の晴れ舞台を迎える。
 その前の十四日・十五日・十六日の三日間は、当町の霰天神山では、町家(ちょういえ)と呼んでいる一軒路地の奥座敷にお社を組み、その中に一寸二分の天神様をお祀りする。そのいわれは、室町時代の永正年間に、京都の大火があった時、俄に霰が降ってきて大火はおさまり、その霰と共に天神様が降って、屋根に鎮座したという故事による。平素は、中庭の奥にある土蔵や納屋に、お祭のすべてのものが収納されている、昔ながらの京町家のたたずまいである。昔、この家屋のすべてを町内に寄贈された音羽東仙氏のお墓は、泉涌寺の法音院にあり、毎年かかさず春秋のお彼岸には、町内の人が揃ってお参りをしている。
 幼かった昭和十年頃は、巡行当日よりも、その前の三日間の夜が、町内の子供達にとっては晴れ舞台であった。行水を早くすませ、首にシッカロールをはたいて、十四日のゆかたは元禄袖のものを、十五日は袖丈の長い袂で、帯はモスリンの絞りのを結んでもらったのを覚えている。十六日は本宵山なので、絽の着物で、赤い地色に白い大きな百合の花柄、袖丈は長く、おじゅばんも桃色の絽の袖がついていた。袖のふりは、着物の赤と重なって美しかった。白足袋をはいて、絹地の扇子を帯にはさんで、町家へ走ったものである。その時の帯は、羽二重の絞りで、ふんわりと蝶結びが大きくゆれていて嬉しかった。
 町家のお座敷に上り、天神様の横で、
 「雷除(らいよ)け火除けのお守りを、受けてお帰りなされましょう。常はでません。今晩限り。ご信心のおん方様は、受けてお帰りなされましょう。」
と、数人の女の子の抑揚のある声がひびく。
 それを受けて
「ローソク一ちょう献じられましょう。」
と、男の子が、白地に黒の絣のゆかたを着て、声を張りあげていた。 
 戦火が激しくなった昭和十八年の夏、女学生だった私は、三菱電機の伊丹工場へ学徒動員として、報国寮へ寄宿舎生活に入った。「無線機五号」の組み立てに配属され、残業もして頑張った。それから何ヶ月か経った或る日、京都の家に一日だけ帰省したことがある。その時、目にしたものは、我が家は全部壊されていて、庭の松の木もなぎ倒され、二つの燈籠・手水鉢・飛び石だけが残っていた。三日間の家屋強制疎開であった。両親は致し方なく向かい側に移り住んでいた。我が家と背中合わせになっていた、室町四条上るの大店が軍需工場になり、まわりは危険なため立退きさせられていた。
今でも目に浮かぶのは、十五年過ごした部屋の欄間の彫や、箱階段に入れてあった物などで、なぜか時折り想い出される。我が家と同じ頃だろうか、五条通や御池通の片側も強制疎開になり、道巾が広くなった。
 戦後十年ほど経った昭和三十一年に、祇園祭の巡行の道が変更された。大通りになった御池通を、真夏の青々とした東山を背にして、長刀鉾を先頭に初めて西下した時、あとに続く山鉾の壮観なこと!烏丸御池で見た、祇園祭の素晴らしさは、しっかりと目にやきついている。
 でも、大通りになった陰に、戦時下とはいえ、沢山の京町家が壊され、多くの人が、泣く泣く去って行ったことを想うとたまらない。

(中京区・明倫学区)
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