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京町家友の会



秋祭りのころ 上田 修三

 秋のお彼岸にはおはぎをいただく。「しっかりおたべ、元気がでるし」と何時も母は自ら大きめのおはぎを作っていた。これが過ぎるとあたりを吹く風も朝夕涼しくなり、あのムシムシだった京の暑さも終わりに近づく。山萩の良く背の伸びた枝が風になびき揺れ、赤紫色の可憐な花びらが、辺りに秋の気配を感じさせてくれる。
 彼岸の後、天気の良い日。夏に頑張ってくれた、座敷のすだれや葦障子、籐畳等を片付ける。一つひとつ丁寧に、この夏の垢を落とす。しっかりと絞った雑巾で拭き、良く乾かしてから布袋に包んで蔵にしまう。交代に何時もの襖、障子、板戸、硝子戸、衝立等を取り出してこれからの季節に備える。座敷西側の敷居は下がっているらしく、取り替え時は、2人が「あ・ウン」の呼吸で、はずしたり、入れたり。昨年は座敷すだれの縁の布が切れていたので取り替えてもらった。その時、すだれのしまい方をそれまでの丸めていたのから、たたむ方法に変えた。また、この夏の間に襖の修理も考えてみたが、結局そのままに…。
 そして10月、秋の収穫祭が近在で続々と始まる。まず北野天神御旅ずいき祭り。福王子神社や住吉大伴神社等も続く。

 ここ花園の今宮神社は第3週の日曜日が祭りだ。今宮さんは平安時代、疫病退散の御霊社として始まった。その後、仁和寺や法金剛院の守り社として発展。現在、花園、安井両地区の氏神さんとなっている。JR花園駅から北へすぐのところに在り、神社の西側の道は平安京の西京極大路にあたるらしい。向いには御陵さんもある。
 我が町内木辻北町は鉾町として祭りを支えてきた。下立売り通りを挟んで南北に面した町内。この通りはかっての近衛大路。現在では妙心寺道と言う。通りの南側の住所は南町だが町内会は北町に入る。その昔、4軒の家が持ちまわりで鉾飾りを担っていたらしい。交通や、家庭やアレコレの事情を経て、戦後は我が家の玄関が固定した飾り所になっている。お飾りは祭りの1週間前の日曜日「お出で」の日として町内のみんながお手伝いして早朝より組み立てる。山車、剣鉾、剣柱、御神体、御鏡、吹き散、太鼓、屏風、三方さん、掛け軸、すだれ、お玉、お供え物、提灯等々。剣鉾の飾り付けは縄のみで巧みに繋ぎ結わえる、代々口伝え、手ほどきで憶え習う。今年春から町内で鉾を守る会が正式に発足。保存継続発展へ、新しい挑戦も始まった。
 祭りと言えばご馳走だ。祖父の時代は文字通り「お祭り騒ぎ」だった。鯖鮨、赤飯、松茸、栗、カマボコ等々。夏に漬けた紅生姜もあった。「鯖はやっぱり焼津の浜塩の鯖や」「小豆、松茸、栗は丹波に限る」と母はひどくこだわっていた。確かにどれもおいしかった。昨夜の内に栗の皮を渋皮まできれいに剥き、鯖の骨抜きをしていた。鯖を締める酢の香や、松茸の匂い、蒸篭で栗入りのおこわをおくどさんで炊く。勿論祭りに酒も欠かせない。家中に豊かな匂いが充満し活気に満ちていた。竹の皮で包んだ鯖鮨やおこわを、親類、お得意さんは勿論、昔色街に居たらしきおばあちゃんにも配っていた。今はその賑わいは無く仕出し屋さんもの。ただ娘の嫁ぎ先の伏見から1週間前に届けられる絶品の手作り鯖鮨に出会える。母も何度かいただき「心がこもったはるなー」としみじみいっていたのが思い出される。  前夜祭は、「花園道心太鼓」の奉納がある。氏子達による勇壮な太鼓の響が祭りを盛り上げる。祭りは、午前中に子供神輿が、午後から本神輿の御巡幸だ。子神輿は昨年新調され、若中会も再組織された。祭りも活気づいてきている。剣鉾の前では、熱気した若衆達が「ヨイヨイヨイヨイ」の威勢の良い掛声に合わせ、カネや太鼓の音、で奉納があり、その余韻が秋空の彼方まで響いていくようだ。

(友の会会員)
過去の『歳時記』