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京町家友の会



9月、防災月を迎えて 松村 篤之介(友の会会長)

古い話ですが、昭和9(1934)年9月21日、私はいつもの通り、朝7時過ぎに家を出て、千本今出川から市電に乗り、烏丸御池の龍池尋常小学校に着きました。小学校2年生の私は、当時電車通学をしていました。

 空は曇天、雨はポツポツ、風は少々吹いていましたが、普通通り8時から授業が始まりました。そのうち1時間目の途中で、あちこちで雨足がバタバタと窓を叩く音や、ヒュウヒュウと風の声が聞こえるようになり、急遽先生の指図で、鉄筋コンクリート造り本館1階の雨天体操場に全校生徒が集められました。
 それから1時間、2時間・・・体操場の窓ガラスや出入口の扉に当たる猛烈な雨風を耳、目にしながら、キャーキャーと悲鳴を上げ、体を寄せ合ってうずくまり、やり過ごしました。やっと風も雨も静まり、日差しも出てきたのか辺りが明るくなって来ました。先生の指示で、今日は勉強なし、これで帰宅と決まりました。

 電車通学の私たちは校門から烏丸通に出てビックリしました。街路樹が倒れ、市電の架線は切れ切れ、あちこちの看板や色々のものが道路や市電の線路に飛び散っています。勿論市電は不通、歩いて帰る以外に手はありません。ランドセルを背負って、傘を持ち、長靴履いてテクテクと歩き出しました。丸太町から更に御所の西を通って今出川まで、それを西へ、途中架線が垂れ下がって、それが下の線路に接触するとピッカと光ります。電気のスパークなのか、金属同士の摩擦なのか判りませんが、その間を縫ってトボトボと歩きました。どれだけかかりましたか、やっと4キロ余りの道のりを家に辿り着きました。
 その時、家での噂では、近くの西陣小学校の木造校舎が倒れて、10数人の学童が先生と共に亡くなったとか、それはそれは怖い、危ない半日でありました。これが、あの名高い「室戸台風」の私の実体験です。

 「室戸台風」の資料を見ますと超1級の台風とあります。21日午前5時四国室戸岬附近に上陸した台風は、最低気圧912hPaを記録し、これまで記録された世界のそれを更新するものであったとか。その後北上して近畿地方に再上陸し縦断して北陸、東北地方から東の洋上に抜けました。最大風速は60m/s前後と推定されていますが、最大瞬間風速は測定で80m/sを超えた地域もあったと書かれています。被害は大阪、兵庫、京都など各地におよび、高潮の浸水や建物の倒壊が相次ぎ、3千名以上の多くの死者が出るという、大変な災害を齎(もたら)しました。
 当時は、勿論気象衛星はありません。洋上の離島からの僅かなデータで、やっと天気図を作っていたとか。それでは台風の正確な姿をつかむことが出来ないのが実情であったようです。
 あらかじめ情報がありさえすれば、学校も登校時間であったが故に、早い目に休校にするとか、また、いろいろの防災の手が打てた筈。残念ながら、時代はそこまで進んでいませんでした。

 その頃、京都の街中に住んでいても危険なことは沢山ありました。ちょっと大雨が来ると烏丸通は川のように水が流れて人は歩けなくなりました。洪水で鴨川が危ないと度々いわれました。一度、丸太町橋まで自転車に乗って鴨川の増水を見に行ったことがあります。橋は通行止め、驚いたことに、橋の上ギリギリまで濁流が猛烈な勢いで流れています。時々、大きな石や木材が橋桁に当たるのか、ドーンドーンと腹まで響くような音がして丸太町橋が揺らぎます。これらを目の当たりに見て子供心に恐ろしくなったことを昨日のことのように覚えています。
 恐らくすぐさま、下水施設の拡充や橋そのものの補強、堤防の補修が行なわれたでしょうが、さらに根本的な、専門的な治山治水工事が、その後長きにわたって進められた結果、今日の烏丸通や鴨川の姿が得られたのだと思います。
 平素からの積み重ねがなければ結果は出ません。短兵急な結果を求めても、かえっていざと言う時に良い結末となりません。

 台風は恐ろしい、地震は怖い、火事は困る。一方、考えれば私たちの周りは、何が起きても不思議でない時代です。「災害は忘れたときにやって来る」とよく言われますが、耳慣れしたせいか余り切実に受け止めないようになっています。大丈夫でしょうか?
 私も含めて、もう一度素直に考え直して、心の準備、防災の備えの再点検をしなければなりません。

(2006.9.1)
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