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京町家友の会


河井家のお正月

河井家のお正月
鷺 珠江
(河井寛次郎記念館学芸員・京町家友の会会員)


 東山五条坂にひっそりと佇む河井寛次郎記念館。ここは記念館にする為に建てられた建物ではなく、陶工河井寛次郎が自分で設計をし、亡くなるまで暮らした、河井の住まいそのものです。記念館として昭和48年に一般公開されてからは誰も住むことはなくなりましたが、それ以前は私も家族の一員としてここで日常を送りました。久しぶりにそんな河井家の当時のお正月の様子を振り返ってみたいと思います。
 私の祖父の河井寛次郎(1890〜1966)は、30歳の時にこの地に窯を得、居を構え、亡くなるまでの46年間をここで過ごしましたが、生まれは島根県の小さな港町の安来でした。
 その妻となる祖母のつねは、中京猪熊三条の宮大工の娘として生まれ、「うちのとこは応仁の乱から京都なんえ」と申すほどの生粋の京都人でした。その夫婦の間に、現在84歳になる私の母が一人娘として育ち、そこへ養嗣子として、これまた生粋の京都人である西陣の白生地問屋育ちの父が河井家に入りました。そういう家族構成での河井家のお正月ですが、普段からとにかく来客の多い賑やかな家でしたので、静かな日常の、いわゆる「ケ」の状態は少なく、どちらかというといつも「ハレ」の状態でしたので、お正月だけが特別という感じではありませんでした。四季折々の自然の流れの中で、一つの区切りとして大きな節目がやってくる、そんな感じのお正月でした。

 
年末になりますと、家も仕事場も、新年を迎える為の準備に入りますが、おそらく他の家と大きく違っていたことは、河井家の場合は、注連縄や餅花を古いものから新しいものに取り替えるということでした。つまり言い換えれば、お正月のお飾りは年中飾ったままの家であったということです。これはいつの頃からそうなったのかが定かではありませんが、祖父寛次郎の好みからと思われます。注連縄の持つ独特の造形美は寛次郎を喜ばせ、またひょっとしたら郷里の出雲大社の大注連縄を想い出させていたのかもしれません。美しく目出度いものなら一年中いいじゃないか、という自由な精神の表れでもあり、また本来の浄めの意味から、いつでも心を正して、毎日新たな気持ちで日々を迎えるという意味もあったように思います。そしてそのことは昔も今も変わりがありません。記念館となった今も、囲炉裏場の注連縄と餅花はとても華やかに、お越しになるお客様を毎日お出迎えしています。
 さて、年末のお餅つきは昔はやっていたようですが、私の物心つく頃には、忙しい家だった為か、近くのお餅屋さんにお世話になっていたようです。大きな大きな鏡餅が、寛次郎のコレクションである赤と黒の塗りの立派なお三方に載せられ、囲炉裏場の中央に置かれていたのが印象的でした。
 また年末には、祖母がタキイ種苗の瀧井家と遠縁にあった為、嵯峨菊や紅白の葉牡丹がよく届けられていました。年が明け、2月近くになると葉牡丹は中央部分をニョキニョキと伸ばしていきますが、寛次郎はその姿もおもしろがって、いつまでもそのままにして、形を整えたりはしませんでした。
 年が明けると、少し改まった挨拶をして、お屠蘇でお祝いし、お年玉をもらい、お雑煮とおせちを皆で囲みました。書生さんやお手伝いさんがお里帰りをされない時は、そういった方々も一緒で賑やかでした。安来のお雑煮は、小豆を使ったお善哉のようなもののようですが、その記憶は娘である母にしかなく、私を含めた孫には、京都の白味噌仕立てが河井家のお雑煮でした。郷に入れば郷に従えの言葉どおり、精神が自由で柔軟な寛次郎は、自らの郷里のものに固執することなく、自然な流れで京都の味を己れのものにしていったようです。

 お正月には、羽根つきをしたり、百人一首や福笑いをしたりと、今思うと絵に描いたような昔ながらのお正月の過ごし方をしました。そして獅子舞が玄関に来て、怖くて泣きながら頭をガブリとかぶってもらったりした記憶がとても懐かしく残っています。そして、お正月といえども来客は絶えることがなく、また普段と変わりのない、忙しい河井家の日常に戻っていくのでした。よそのお家のお正月がどんなものであるか、河井家が他とどういう風に違うのか、ということは私にはわかりませんが、三が日の決まり事のような堅苦しいものの全くない、穏やかで楽しく、そして清々しいお正月だったと、今思い返しています。

「新しい年が来た。二度とは来ない年が来た。
何が見えるか今年、何が出来るか今年、どんな自分が見付かるか今年。
新しい年を貰ったあなたと私、御目出度う。」

 (河井寛次郎『お正月を貰った子供達』より)

(2009.1.1)
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