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京町家友の会


節分

節分
山田 公子(京町家友の会事務局)

   私と主人が京都の私の実家に越してきた2001年の冬、伯父が京大病院に入院したので、お見舞いに行くことになった。2月2日、ちょうど節分の前日。吉田神社では、その日は追儺式が執り行われるらしい。お見舞いを終えて病院を出ると、雪が降ってきた。(京都もだんだん雪の降る日が少なくなってきているが、節分の日は降る確率が高いように思う)。粉雪が舞う中、吉田神社に入ると、いわゆるお祭向けの屋台の列が両側に並び、それが思いのほか延々と続く。屋台が途絶え、ちょっとした階段を上った時、不意に金棒を持った鬼が現れた。確か、赤い鬼、青い鬼、それに黄色い鬼も。おそらく京大の学生がアルバイトで扮しているのだろうと思うと微笑ましく、また、せっかく節分祭に来たのだから、鬼が3匹も、それも予想もしない黄色までいてくれて雰囲気を盛り上げてもらえたことに結構なことと楽しい気分でいたら、横で母が「怖い〜、怖い〜」と、子供のようにはしゃぎながら逃げ回る。それを見た鬼たちは、ここぞとばかり追いかけようとする。母は半泣きのような顔で「きゃあー、きゃー」と言いながら私を盾にして後ろで騒いでいる。しばらくして鬼が他の人のほうに行くと、「あ〜怖かった。けど、面白かった!」と今度はキャッキャッと笑っている。「こんなぎょうさんの鬼見たん初めてやわ!怖かったなあ〜」と言いながらも上機嫌で、無事お参りも終えた。
 翌3日の節分の日の夜は、夕飯を終えてから、豆を数え年の数だけ半紙に包み、それに名前と年齢を書いて、家族みんなの分をまとめてまた半紙で包み、普段着にコートを羽織って、つっかけのまま近くのお不動さんへ納めに行く。ほんの僅かなお賽銭で、これから一年の家族全員の無病息災を御願いする。家に戻ると、また、先ほどと同じように自分の数え年の数だけ豆を半紙に取り、今度はそれを一粒ずつ食べる。子供の頃は、自分の分の豆がすぐ無くなってしまうので、もっと食べたいなあと思っていたが、だんだん歳をとると自分の数え年の数の豆を食べるのはなかなかしんどいものだ。それこそ祖母や母は80余粒の豆を食べるのに苦労して、その半分を「また明日食べまっさ」と元の半紙に包んでいた。
 東京で生まれ育った主人の家でも、節分の行事は執り行っていたそうで、玄関や窓を一つずつ開けてはそこから外に向けて「鬼は〜外」、部屋に向けては「福は〜内」と、普段は聞いたことのないような大きな声を張り上げて豆を撒く。私と母は主人の後ろに付いてまわるように言われたので従ってはみたものの、主人の声のあまりの大きさに近所に聞こえたら恥ずかしいと、「もうちょっと小さい声にしてえな」と頼んでも、「それではダメなんだ」と、変わらず驚くような大声を出す。母は、この時もその声の大きさが可笑しくてたまらないとお腹をかかえて笑い、「笑い過ぎて動けへん」と途中から付いて来なかった。翌日、神戸にいる私の姉に電話して「山田さんのあんな大きい声聞くのん初めてやわ!ほんで、あんな面白い豆撒き、初めてやわ!」と嬉しそうに報告していたらしい。(母は何でも気に入ると「こんなん初めてやわ!」と言って喜んだ)。
 その翌年の節分は、廬山寺に行った。本堂前にはロープが張られ、たくさんの人だかりがする中、着ぐるみの鬼は、まるでコントのお相撲さんのようだったが、それはそれでなかなか興味深いものだった。またその翌年は、氏神さんである八坂神社に行った。ここでの豆撒きは能舞台から四方に投げられるのだが、かなり離れたところにいても結構何回もキャッチできて「今年は運が良いかも」と勝手に悦に入っていた。そして、その翌年は、六波羅密寺に行ってみた。六斎念仏が奉納され、それだけでもかなり見ごたえがあったけれど、豆撒きもまた楽しく、ここでもいくつかの豆袋をゲットした。この日も途中から雪が降り、帰りは吹雪となった。
 節分の日は、毎年、思い出が詰まった一日となるが、今年は主人と二人、お互いの息災を静かに願う一日としよう。

(2010.1.1)
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