• 京町家net ホーム
  • サイトマップ
  • アクセス・お問い合わせ
京町家友の会


口切の茶事

口切の茶事
西村吉右衛門(友の会会長)

 茶道を習い始めてもう八年にもなろうとしているが、道を究めるにはまだまだ年数がかかるような気がする。毎年、11月になると風炉から炉にかわり、炉が開かれる。夏の間に灰を洗うことも私の仕事になった。今年は、天候不順で灰を乾かしていると雨になり、慌てて軒先に灰を取り入れた、その繰り返しが何日もあった。その苦労して洗った灰を炉に戻し、炉のお点前の練習が始まる。年をとると物覚えがわるく、炉のお点前を思い出すのに時間がかかる。しかし、風炉から炉への変化は、気分の更新にもなり情緒の変化もあり茶の湯の面白さの一つでもある。

 お茶のお稽古の大きな目的は、お茶事を行うためにすることがわかったのも最近である。その茶事のなかで、口切の茶事は茶家で最も重要視する茶事である。昔から茶人は、茶壺に新茶を採れる前に宇治などの茶師の家に預け、茶師は、濃茶の何種類かを二十匁ずつはいる紙袋にいれて茶壺の真ん中にいれる。そしてその周りに薄茶に使われる詰め茶といわれる葉茶をギッシリと詰め、壺の蓋をして合口に茶師の封印をしておくらしい。その茶壺の口の封印を切って当年はじめての濃茶を点てるのが口切である。

 茶事は、だいたい10時から正午の間に始まり客は、初入りすると床の上にある網にいれてある茶壺を拝見する。主人は水屋から入り日記を持って正客に渡してから茶壺を採りこみ壺のあみをはずし、口の封印を切って客の所望する濃茶を詰め茶とともに取り出し水屋に引いてしまう。水屋では早速、その茶を茶臼で挽きはじめる。雑煮や三種もりの八寸がでて三献の式がおわり、初炭があり懐石となり中立になる。そして後入りしていよいよ挽きたてのお茶を戴くのである。こう書いているが、私自身は、この口切茶事は未体験である。ちおん舎で、茶事のお稽古をできるように飲食の営業許可までとったのに、実際なかなかお稽古茶事を行えないでいる。

 10年前ちおん舎を設立して、一番早く直したのが茶室だった。あとで知ったが、茶祖といわれる村田珠光が奈良の称名寺をでて京都に家居したのが京都三条といわれ柳の水を使っていたので、ちおん舎からわずかの距離のところである。珠光は、一休禅師の法弟であった。一休禅師が、珠光が茶事を好んで日々に行うのをみて茶は仏道の妙所に叶うべきものとて点茶に禅意をうつして、みんなのために自己の心法を観ぜしむような茶道にしなさいと教えた。その後、武野紹鴎は大徳寺古嶽禅師に、千利休は大徳寺古渓禅師に参禅していた。後の千宗旦は、「茶道は遊戯ではない。本当は自分の心を磨くためのもので、これを禅からいえば、自分の本心本性を悟るもの」と言った。点とは禅の言葉で鎮めること、休めること。点茶とは、心を静かに鎮め、一切の煩悩妄想をやめて、自己の本心本性を落ち着かせて、清浄無垢になりきり客にお茶を点てることでもある。本来無一物の意味することもわかる。村田珠光は、こうしたことを悟り茶道に生かし、道としての侘茶を始めた。そして、その次の武野紹鴎も京都に出てきて家居した。その大黒庵も、ちおん舎から数分の距離にある菊水鉾町にあった。

 京都は、単に古い寺院や町家が残っているだけでなく、先人たちの魂が今でも生きていてこの町の中を漂っているがする。おそらく、善良なこころをもてば、善良先人の魂が引き寄せられ、煩悩や邪なこころをもてば悪霊に取り憑れる町でもある。おっと、煩悩や善良な心といっているうちは本来無一物の意味が分かってないのかもしれない。凡人は、なかなか無になって悟れない。かけ離れていると思う仏凡が一体であって、仏とか凡夫とかいう分別すらないと先人は教えている。茶室の中で無我無心の境地になり、お茶を点てながら、日本を忘れた日本人や海外の人たちとこんな話がしてみたい。

(2014.11.1)
過去の『歳時記』