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京町家友の会


新たな年に

新たな年に
小島 富佐江(京町家友の会)

 新年、昔はこの日にひとつ年をとった。私たちは満年齢を使うようになって、お正月から年を数えるという実感はないが、上の世代にはまだその感覚を忘れていらっしゃらない方が多い。「子どもの頃は一つ大きくなるのがお正月の楽しみやった。」と伺ったことがある。一方では、年をとることは、一歩一歩あの世へ近づいているということも現実として受け止められていた。昔、お習字のお稽古に習った年賀状のお手本に「蓬莱のしづかによせよ 老いの波」という言葉があった。私はまだ学生で年をとることの意味がよくわからなかったが、どういうわけか頭の片隅に残っていて、お正月になると思い出す。今はこの言葉の持つ意味を噛みしめている。 よく耳にするのは「正月や冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」 お正月は重たく、大切な節目だった。

 大晦日に神社では大祓いが行われる。過ぎ行く年を祓い、新しい年に備えるためである。よかった年、悪かった年、悲喜こもごも、でもお正月にはすべてを一新、いい一年が過ごせるようにといった考え方は、私たちが生きていくためにはとても大切なことだと思う。だからこそお正月をもう少し大事にしたい。

 初春、初日の出、初詣、書初め、初荷とお正月からのことを考えれば、するすると言葉が出てくる。若水という言葉もある。お正月は縁起を大切にするため、言葉には気を配り、晴れやかな文字や言葉が私たちの周りにあふれる。最近は英語、カタカナが多く目に付くようになったが、節目節目を表す言葉はかなと漢字である。それぞれが美しい文字であり、音も耳にやさしい。漢字は書くだけでイメージが出来上がるほど優れた文字であると思う。かなは流麗で、絵を見ているような感がある。「はつはるをことほぐ」という言葉はかなだけでも漢字混じりでもとても美しいと思うし、音を聞いてもなるほどと感心してしまう。抽象的なものを文字で表す、音で表すということは大変難しく、自分ながらの表現はとっさには出てこないが、古典や辞書を探せばたちどころに見つかる。私たちは大変な財産を受け継いでいるのである。


春を待つ椿
  松の内を過ぎると、お飾りやお正月に使った祝い箸などを我が家ではひとつの袋に入れておく。ごみとして捨てるのではなく、節分に詣る神社に納めるためである。古いお札や、お守りも同じようにしておく。「おとしこし」の準備である。京都ではよく「としまわり」のことが話題になる。家を直すときに「今年はとしまわりがよくないから、節分をこえてからにします」とか「節分までに」というような区切りを話される。お年寄りには節分を「おとしこし」と言われる方もあり、お正月とは違う、もうひとつの節目がある。調べていると節分というのは立春、立夏、立秋、立冬の前日のことで、立春が一年の初めとされているため、今では春の節分だけが特別になっている。この日の京都は壬生寺、吉田神社を筆頭にお寺、神社へ年越しのお詣りで大層にぎわう。前年の厄を祓い、新春を迎えるために、かぞえ年の数の豆を包みお賽銭と共にお寺や神社に納める。あわせて家の中では豆まきが行われ、「鬼は外、福は内」は子どもたちの楽しみにもなっている。節分には塩いわしが食卓にあがるが、脂の乗ったいわしを焼く煙が鬼を退散させるためということで、注文をしないでもお魚屋さんが当たり前のように届けてくれる。門口にはいわしの頭にとげとげのひいらぎを挿し、ぶら下げておくお宅もあるが、今ではあまり見かけなくなった。

 本当の春にはまだしばし間があるが、寒中の彩として、梅の便りが聞こえ出す。寒さの中に凛として咲く花を私たちは好むようで、雪のちらつく中、花をたずねて歩く。

 2月は更衣(如月)。寒さに更に衣を重ねるという月。一年で一番寒い季節が到来する。
(2015.1.1)
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