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◆京町家コラム
第6回 京都の今昔
望月秀祐

●景観論争の幕開け
 京都市にはじめて用途地域が指定されたのは大正13年(1924)で、この地域制は昭和48年まで49年間も長く続いた。この地域制の特徴は用途と高さの規制がセットになっていたことである。すなわち、商業地域は高さ31メートル、その他の住居地域・準工業地域・工業地域は高さ20メートルに制限されていた。この31メートルの数値は尺貫法による100尺の換算値で、前年に起こった関東大震災での建物の被害状況から100尺以下の高さなら耐震的であろうと判断して決められたもので、景観上決められたものではない。

 昭和44年(1969)、銀閣寺の近くに高さ20メートルで7階建の分譲マンションが建設されたとき、そのような高層マンションに商品価値があるとは信じられない時代であった。第二の銀閣寺マンションを阻止するため、高さを10メートルに抑える高度地区の指定が急がれた。翌昭和45年(1970)に住居地域のうえに重ねて指定されていた住居専用地区(用途規制が厳しいだけで、高さは20メートルまで可能)、今の第一種低層住居専用地域に相当する地域に高さ10メートル以下とする高度地区を指定した。昭和48年(1973)新用途地域・高度地区が指定されるまでの3年間、高層マンションの林立を抑制することができた。

 マスコミ報道はスクープした記事ほど、必ず他紙よりも大きな紙面にする。この高度地区創設は地元新聞の第一面の全面に掲載された。良いPRになったと思ったが、私からリーク(洩らす)したことはない。当然市長からは厳しく注意された。

 話は少し昔に戻るが、昭和33年(1958)、京都市国際文化観光会館(後の京都会館)の建設場所は、最初から岡崎公園内に決まっていたわけではない。便利が良い所を選ぶべく、市役所の前の本能寺敷地と墓地がその候補にあがったが、本堂と墓石の移転補償費だけで建設予算(当初は3億円)をオーバーしたので見送られた。会館建設委員会で円山公園内との意見も出されたが実現されなかった。

 昭和38年(1963)ごろ、京都駅前で高さ31メートルの工事中の建物を見上げたとき、その柱・梁の鉄骨の骨組みの異常なまでの大きさに目を見張った。間もなく高さ100メートルの高架工作物(後の京都タワー)がこのビルの屋上に建設されることが新聞で報道された。このため、地元経済界は賛否で意見が二分し、文化人の反対も多く、京都市の景観論争の第一号となった。

●都市計画行政裏話
 商業地域内の建物の高さは31メートルに抑えられているのに、なぜ131メートルもの京都タワーが建設されたかと不思議に思う市民が多かった。市長も心配して建設基準法担当官に問いただしている。建築基準法の根拠条文は第57条(当時の第58条の2)(高架の工作物内に設ける建築物等に対する高さの制限の緩和)で、特定行政庁(市長)が周囲の状況により交通上、安全上、防火上及び衛生上支障がないと認めるものは建物の高さ制限が無いのであった。「景観上」の文言は入っていない。つまり高架の工作物は建築物でなく、展望塔の部分だけが(空中に浮かんだ)建築物なのであった。

 昭和39年(1964)に京都タワーが完成した年、阪急電車の河原町乗り入れ工事も完工している。地下鉄の上に地下道が河原町通りから室町通りまで(東洞院通り付近は後に追加)造られた。この地下道は阪急電鉄の当初計画では地下街であったが、地元商店街の絶対反対の運動があって取り止めになった。後年地元商店街は地下街反対の非を認め、改めて阪急電鉄に申し入れたが一蹴されたという話を聞いている。

 この地下道は当初は人通りが少なく痴漢が出没したので「チカン道路」とも言われたが、防災避難用通路としては有効なものである。最近では、ホームレスが柱と柱の間に一列に並んでいたので「ホームレス道路」といわれる心配もあったが、現在は正常に戻っている。

 昭和47年(1972)ごろは日本列島改造論ブームで高度経済成長が期待された時代であった。このころ、法改正に伴う新しい用途地域等の新制度を定める時代でもあった。戦後はじめて、用途地域4地区制を8地区制とキメの細かいものに改正したうえ、建物の高さ制限は原則として廃止し、容積率制限に移行することになった。

 当時、都市計画を担当した私としては、高さの無条件撤廃に抵抗して景観上高さ20、31メートルの制度を温存し、時代の流れに逆行し過ぎないよう45メートルの地区を都心のいわゆる田の字型幹線道路沿いのみに制度化しようとした。当然、当時の建設省は強く反対したので、周辺に広い空地を設けるならば、高さ制限を緩和する基準を別に盛り込むことによって建設省を説得しきった。これが昭和63年(1988)の京都市総合設計制度につながり、第二の景観論争に発展した。

 一方、容積率制度は当時の建築基準法では商業地域は400%から1000%の間で決めることになっていた。そのため、京都市では一般の商業地域は最低基準の400%、防火地域内の商業地域は600%、田の字型の幹線道路(高さ45メートル地区)は800%で建設省と協議したが、建物の高さを押さえた反発からか800%は700%に引き下げられた。後に調べてみると札幌市でも800%が採用されているのを知り、大都市としては残念な思いをもった。平成4年(1992)の法改正で商業地域内の容積率基準に200%、300%が追加されたのを知り、複雑な思いをもった。

 昭和59年(1984)京都駅南口地区再開発ビル(アバンティ)完成を待って、私は京都市役所を去った。京都駅南口地区の再開発計画は駅前全面に及ぶものであったが、地元交渉の結果、烏丸通りを挟んで東西両ブロックが再開発事業の最初の対象地区となったが、烏丸通り西側ブロックの地元調整がつかず、東側ブロックのみの事業に限ったのは私の決断であって、少々悔いを残しているが、もしも両側ブロックに拘わっていたら、いまだに再開発事業には着手できなかったと思っている。

 この再開発ビルの愛称募集をすることになり、梅原猛先生を選考委員長にお願いして全国規模で募集した。その結果「アバンティ」に決まったが、選考の過程で梅原先生は「アーバン」の案を支持された。その理由は「ン」で終わる名称は運がつくとのことであった。私もストンブリッヂの社名をブリヂストンと改名して会社の業績を伸ばしたことことは知っていたが、「アーバン」では迫力に欠ける気持ちがあった。

●市民活動グループの立ち上げへ
 平成3年(1991)は日本のバブル経済がはじけた頃であるが、京都市では新しいまちづくりが始まった年でもあった。1月には「新しいまちづくり試案」の市長発表、2月には京都ホテル超高層(高さ60メートル)の市長許可、5月には京都駅ビル設計コンペで高さ59.8メートルの建物が採用、6月には京都市まちづくり審議会の発足(翌年4月答申)などがあり、正に京都景観維新の年であった。

 私たち専門家を中心にした有志は京町家再生のための組織づくりをするため、京町家再生の第一号であった「百足屋」の2階で討議を重ねたが、その決起の時機がなかなか決まらないまま、遂に7月17日祇園祭巡行日を決起の日と決断した。組織の名称もいろいろな案があったが、私は「ローマ・クラブ」の名に惹かれ、「百足屋・クラブ」を頭の中で考えていた。当時ベストセラーになっていた本に『成長の限界』があった。それはイタリーで結成した「ローマ・クラブ」の「人類の危機」レポートであった。現在の人類の危機を生々しく科学的に予測したものである。私は「京町家の危機」に語呂を合わせたつもりであったが、結局、京町家再生研究会という少々アカデミックな名称に落ち着いた。以後、研究と実践を反復して10年を経過した。今では京町家保全再生が官からも民からも認められるようになり、隔世の感がある。さらに新しい時代を予感している。

──新たな再生に向け、会長を辞任するにあたって