• 京町家net ホーム
  • サイトマップ
  • アクセス・お問い合わせ
京町家再生研究会
大谷孝彦

町家の軒下-1 −空間と意匠の変化
 10世紀頃に発祥したといわれる町家はその後長い年月の中で社会、暮らしの移り変わりと共に形を変えながら今見られるような町家へと伝えられてきました。

 ここでは外観、特に一階軒庇下の様子の移り変わりをみてみたいと思います。昔の絵巻物、屏風絵に見る町家においても町家は通りとの係わりが強い商空間であることが分かります。近世以降、今のような京格子が現れましたがこれは祭りの折には取り外され、又、商品を並べる可動式の上げ店(ばったり床机)が設けられるなど、京都大学の煖エ康夫先生によると、庇下の空間は、通りと内とのやりとりの行われる、仮設的装置の空間、表と内、公と私の中間領域であったと言われます。京町家の象徴的要素とも言える京格子は元々、防犯の目的で発生したものでしょうが、いつしか意匠性に優れ、そして細かい竪格子によって、半透過的であり、内と外を隔てるような、あるいは、繋げるような曖昧さ、両義性を持ちながら内と外の係わりを作っていました。このような格子は庇下の空間の意味合いを象徴的に表しているように思われます。

 そのような町家に昭和の初め頃大きな変化が見られます。当時は経済的にもゆとりのある社会状況の下で盛んに洋風化が行われたモダニズムの時代であり、町家のスタイルにも変化が見られます。内部においては洋間応接室が造られ、外観については、二階の階高を高くし、軒裏に天井を張り、外長押をまわし、一階については石張り、人造石研ぎ出しなどの腰壁を設け、すりガラス窓・真鍮など金属パイプの格子がはめられました。

 このような改変は実は表通りに対する空間的意味の大きな変化をもたらしていると思われます。これは、それまでは町内式目などによる町内の取り決めなどもあり、どちらかというと控えめに見せていた町家の外観に対して、店の格式を表わすための積極的な表現を試みたということ。腰壁が地面から立上がることによって本来は内外の中間的領域である空間を内に囲い込み、私有化を強くし、仮設性を無くしたこと。また、その結果として祭りの時の格子の取り外しによる開放的な「ハレ」の場としての空間演出のダイナミズムを失ってしまったこと、などです。ただ、視覚的な区画としての摺りガラスは半透過的であり、かろうじて格子の曖昧さを踏襲しているとも言えなくはない。しかし、曇りガラスという薄い素材の効果には格子のもつような深みのある曖昧さは感じられません。

 このような昭和初期の改変は町家空間の本質的な意味においての大きな変化があるわけであり、当時そのように晴れやかな町家は町並み景観の中でも少なからず目立つ存在であったろうと思われます。しかし、今みると町並みを乱すほどの大きな改変と感じることもなく、昭和初期型という町家の一類型として位置付けられています。そのような改修の行われた社会背景が現在の町家にかかわる状況の背景と通じるところがあるのではないかとも思われるのですが、幸い当時の経済規模あるいは、建築の一般的技術レベルにおいては今のようなビル化が行われるまでには至らなかったこと、また、改変の形が一定の様式に統一化されたことによるのでしょうか。この頃の様式の統一の傾向は、このような改修スタイルが当時の流行という形で広く受け入れられたのでしょうが、流行スタイルという様式の上に威厳・格調の表象を重ねあわすというのが当時の社会的背景であったかとも思われます。

 最近は建築家、デザイナーの手がけた町家改修事例が多くみられます。そこには昭和の初期とはまた異なった改修の意味と改修空間の特徴があるやも知れません。また次回に話を続けたいと思います。