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京町家再生研究会
大井市郎(情報センター代表)

京町家情報センター・作事組さんとの出会いと「町儀録」のこと
 私は祖父以来の京町家に住んでいます。明治から昭和の戦後までは昔の町家姿のままでしたが、私の代になって昭和の35年頃から、家族構成や生活様式の変化に対応して、少しずつ昔風の町家を今風に改修していきました。今から思えば、もっと町家を大事にした改修があったと悔んでいます。
 それはさて置き、祖父が一旦叔父に贈与した筋向いの家が、又私の元に返ってくることになり、その活用をあれこれ考えている時、情報センターの松井さん・作事組の梶山さんと出会うこととなり、その結果が私の家とよく似た同家を改修して、通称「醒ケ井の家」が実現しました。
 同家はこの通信でも再々取上げて頂いており、現在「子どもと川とまちのフォーラム」さんが事務所として、会議室として、又町内の集会所としても活用しています。京町家再生研さんとはこの様な関わりがあったのですが、今回計らずも、情報センターの代表を仰せつかることになり、この一文を草する羽目になった訳です。
 たまたま同上改修工事が酣(たけなわ)の頃、私が数年来読み続けてきた越後突抜町の「町儀録」を冊子として上梓する事となり皆様にお見せした所、大変興味を持って頂きましたので、その内容を少し紹介させて頂いて、新任のご挨拶に代えさせて頂きたいと存じます。


町儀録

 この「町儀録」は幕末に近い文政・天保の頃、洛中の一町内の一寸目立った出来事を、その都度記録していったものです。記録者は当時の越後突抜町の年寄・柳屋平左衛門と云う人です。町年寄と云う仕事は町内の五人組2人と共に、幕府行政の最末端組織として町内を取り纏める役で、一般的呼称としては町役人と云っていました。年寄役には袴料、祝儀、お礼等種々の名目で報酬があり、その額が凡そ年20万円程度(金1両=銀60目=銅4000文=現在の10万円で便宜的に換算、以下同断)で、出所は全て町内からです。
 町内諸入用の主な収入源は家屋敷売買代金の1/20の町内への納入金です。これを原資として色々な事業・行事を行っています。排水溝の改修を含む道普請、町内番部屋・非常道具入れの建替え、構門の修復、治安維持の為の自身番(恐らく番部屋での徹夜の警戒)、宗門改め・人別送り状の発給等戸籍の確認、捨子・行倒れ人等の救済の仕事、祇園祭礼等への参加・寄付、町内の冠婚葬祭等親睦行事の実施、幕府主要役職者上京の節の山科への前日よりの儀礼的お出迎え、奉行所での訴訟への再々の立会、更には町用人への給金の支払い等々種々雑多な仕事をこなしています。
 その中で特に変った事として、ご法度の博打でお咎めを受け、本人は身柄追放、有金即刻召上げ約300万円、家屋敷・家財道具は一切没収され競売にかけられる事件が起こります。これを種々苦労の末、町内が落札し、息子に再び買い戻させ、目出度し目出度しとしています。この土地は200坪程の広さで、文政8年、当の本人が約2000万円で買得しました。そして9年後の天保7年に、もう一度約2700万円で落札・買い戻しているのです。現在の我々の感覚からすると、目出度いどころではなく、多大の出費・犠牲を払ったと思ってしまうのですが、町内の善隣環境はたしかに厳として守られたと見るべきなのでしょうか。
 今から170年程前にはこんなことが行われていたのです。以上昔話を提供してご挨拶と致します。
 尚、追放になった当の本人は、11年後の弘化4年ご赦免になり、元の家に帰っています。


2004.11.1