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京町家再生研究会
木下 龍一(再生研理事)

斧屋──開店
 新年1月9日朝、釜座町町家(ちょういえ)「斧屋(おのや)」のミセの中央に置いたコモ樽の鏡蓋が割られ、作事組事務所開きが行われました。同時にオクの間、前栽、ハナレを使って、京町家ネット主催の新春茶会が催され、町家(ちょういえ)は訪れた大勢の人々で賑う楽しいハレの空間となりました。釜座町内や明倫学区、三条通界隈の方々と共に、作事組創立以来10年間に御世話になった町家の御施主様、新しくここを訪れた町家を直したい方、求める方々と、京町家ネット4会の世話役の皆様が一同に会し、祝杯を交わし歓談した楽しい一日でありました。その日以降、「斧屋」の表には、「どうぞ中に入って御見学下さい」「町家何でも相談」「町家塾」等、日替わりで担当各会名と催事内容が素木の立看板に表示される様になりました。


下京町頭町の宅地割(『図集 大日本都市史』より)
 1月21日、早速京町家ネット企画の「町家塾」がスタートし、建築史の高橋康夫先生の「京町家の歴史」特別講義がありました。2階座敷に30名を超える塾生が集まり、平安京から中近世の京都(みやこ)のまちづくり史と、絵図による京町家の意匠の変遷について、興味深いお話を聞きました。特に、つい隣の町である町(まち)頭(がしら)町(ちょう)(新町通姉小路‐三条の間)の天正16年の町割図に、間口1間半から2間半の町家(店(ま)小(ち)屋(や))が、60数軒も通りの両側に櫛比(しっぴ)(櫛の歯の様に緊密に立ち並ぶ様)し、両側(りょうがわ)町が成立し、三条町、衣棚町、釜座町等20町をもって、まるまる下京牛寅組という町組を形成したこの地域は、繁華な商工業都市の中核をなしていたと思われます。この町(ちょう)と町(ちょう)組(ぐみ)は、町衆の自衛自治組織として誕生し、近世封建権力の支配の為の行政末端機構として利用されながらも、町民の自律的共同体として活躍し、近代(明治2年)の小学校区制度に改組され、現在まで受け継がれています。町名や学区名は、中世の両側町成立時の様な地域の共同団結意識は失われたものの、町自体の独自性と歴史性を表わすものであり続けると考えられ、文化地理学的に重要な意味を持っているに相違ありません。
 昨年6月より11月迄、私は設計担当者として、この釜座町町(ちょう)家(いえ)改修現場に通いました。財政支援をして戴いたワールドモニュメント財団と、フリーマン財団の主旨もあって、町家再生プロジェクトの実行と共に、京町家を保存再生するための、教育啓発プログラムを並行して行う様努力していました。つまり、例年の様な楽町楽家のオープンハウスに始まり、学生の町家再生コンペ、各工程に於ける市民や学生、あるいは実務に携わる建築設計者や職人さん、あるいは、海外からの専門家や研究者に対する現場見学会を、出来る限り回数を重ねて行いました。また施主である町内会の皆様と共働して、地蔵盆や斧屋さん御一家の供養をさせて戴くと共に、近隣のマンションの子供達や町内の若者に呼びかけ、土壁づくりや土間タタキのワークショップを行い、町家本来の伝統工法に徹した技法を共同体験してもらい、町内のお年寄り達の共感が得られた様に思われます。町家そのものの作法の中に、町内が大事に考えてきた自然への敬意や、人と人の絆、人と物との関係性への思い入れが、今なお生き続けているためではないのでしょうか。
 近年の日本の地域社会の疲弊状況は惨憺たるものです。京都でも中心部の無秩序な建物の高層化によりすぐれた景観は失われ、商店街は活気無く、車優先の為、老人や子供達の楽しく過ごせる場所はなくなり、コミュニティーは生気を失っています。私達は、三条通りの一隅に「斧屋」という町家再生の拠点場をお預かりし、町家再生の視座から地域のまちづくり活動と連携しつつ、一歩ずつコミュニティーの修復と再生を目指して、前進してゆかねばなりません。空き町家や独居老人の町家に風を通し、新しい地域での役割を与え、潤いのある地域そのものを再生してゆきたいものです。京町家ネットの皆様の共同の意思で、この「斧屋」から三条界隈のみならず、京都全体が着実に変わってゆく、ダイナミックなまちづくり活動を展開しようではありませんか。

2011.3.1