祇園祭調査をふりかえる──次の時代へつなげるために 丹羽結花(再生研究会幹事)
山鉾構造調査中、数人のお祭マニアから「そんなこと、調査済でしょ?」と問い質された。なかなか鋭い。確かに様々な調査があった。しかし、どこまで明らかになっているのか、その結果はどこにあるのか。これらが曖昧であることは京マチヤ(註1)が抱える問題と類似している。このような観点からこれまでの調査をふりかえっておこう。総合的な調査としては、1973〜1975年に行われた都市人類学的なものが有名だろう(註2)。29の山鉾町の人々が主な対象であった。高度経済成長期を経て、祭が大規模化、観光化され、少しずつ町の人々の手に負えなくなりつつあった。夜間人口がゼロとなった町内、ビル化したチョウイエなど、担い手と資金の確保が模索されていた。 筆者はその10年後、1983〜1985年の再調査に参加した(註3)。京マチヤが立ち並ぶ京都らしい場所を期待していたが、担当した町内はビルが大半であり、ビルのチョウイエには会社の総務課の人々も集まる。マンションの住人は、従来の借家人と同等と見なされ、運営に携わらない。きわめてビジネスライクな人間関係である。建物や仕組みは同時代的だが、古い考え方も残っていた。 しかし、夜間人口ゼロという町内は案外少なかった。17日巡行の朝には、それまで一度も見なかった町内の老人や婦人が通りに出て、出発を見送る。一方、京マチヤを引き払い、郊外住宅地に住み替えるという3世代居住の家族もいた。彼らは「毎日の生活の方が大事」という。祭は町にとって昔からあることだが、毎日のことではない。生活基盤がしっかりしていなければ祭どころではない。祭が住み続けるよりどころにはならない人々もいる。 1990年代にはお飾り場に関する詳細な調査が行われた(註4)。伝統的な町並みや祭らしい景観が評価されている。現在では、マンション建設の際、お飾り場や収蔵庫を組み込む交渉が一般的となってきた。マンション住民を受け入れることにより、町費は安定し、次世代の担い手もあらわれる。建物よりも人々の方がしぶとかったのかもしれない。今では巡行する山鉾は32基、一見祭は華やかで何の問題もないように思われる。 調査から感じることは全容を把握するのがきわめて難しいということである。各山鉾町は独自に動き、お互いのことをなんとなく知ってはいるが、同じようにするわけではない、というのがその理由である。吉田孝次郎氏が6月のシンポジウムで語ったように自分の山や鉾が一番だと思っている。町の自覚に任されているという特徴は、危機的状況が自覚されていない場合に問題となる。さらに町の歴史や現状によってとるべき方策は自ずと異なる。これはそれぞれの京マチヤにおいて家族のあり方や歴史によって再生方法が異なるのと同様であろう。 問題としては以下の三つに集約できる。第一に過去や伝統に対する価値観が重視されすぎる。必ずしも古いからよいというわけではない。適切なメンテナンスが必須である。 第二に見えない部分の評価である。山鉾やチョウイエの状況については1970年代に実測調査があった(註5)。しかし、具体的な対策が十分検討されたというわけではない。今回再生研が関わることになったのは、京マチヤと同様、今までの知恵を生かして、未来へつなぐという役割が期待されているともいえる。 最後に調査資料の問題である。資料が散逸し、比較できないのは大変残念なことだ。調査とは過去のことを調べるだけではなく、当時の状況を写し取ることでもある。情報を整理し、共有し、活用することで、新たな知恵も生まれてくる。生活にともなう変化は次々と姿を消してしまう。今回の構造調査がアーカイブという観点からとりまとめていくきっかけになることを望む。 ● (註1)祇園祭で町家といえば「チョウイエ」すなわち町会所のことである。ここでは通常の京町家、つまり伝統工法に基づく木造住居を「京マチヤ」と表記して区別する。 2006.9.1 |