京町家棟梁塾第三期を終えて末川 協(作事組理事・京町家棟梁塾副塾長)
塾の開始に当り想定した棟梁像とは、「率直に町家の技や工夫を学び、極めて具体的で熟練を要する伝統技術の細部にまで町家の成り立ちの全体を見出すよう務め、それを誠実に続けることでいつしか総合的な判断ができる人材」である。その点から極論すると、個人の経験の域を超えて完成が目指された伝統構法の奥行きに対し、塾生が自身の力量を素直に感じる事が出来れば、塾の役割はたぶんに果たされたといえる。 修了時に塾生は、それぞれの2年間を省みてその先の抱負を自分の言葉で話す。自身の取組みの不足を省みる一方、日々責任を持つ仕事の中で、問題解決のための手掛かりや判断の物指しを得られたと感じる塾生には、それを忘れない限り棟梁への道が続く。その逆もしかり、講義の内容に到達点は無く、修了証は「資格」や「免状」とはなりえない。 「京町家の再生・継承を支える次代の職方の育成」が棟梁塾の大それた目標である。第一期生から、町家再生を生業とする若手親方が何人か現れた。独立はせずとも、もとより町家の改修実務に関わる若手職方が学び直す機会も得られた。定量的な評価とは無縁だが、町家再生の将来にとって心強い若い仲間たちが増えたことは確かな実感である。 町家を巡る伝統構法を一から学び直したことは、職方の育成を超えて、現場の技術の再生とも直接につながった。町家の存続を前提とする限り水仕舞を最優先すること、揚げ前とイガミ突きに正面から向かうこと、土壁を木舞下地から編みなおすこと、ベンガラを丁寧にふき取ること。これらは実務に取組む一部の卒業塾生の貫徹する改修作法となりえた。トレンドリセッターの役割を先鋭的に果たしており、後に続く者への励みになる。 2011年の釜座町の町家(ちょういえ)改修で示されたように、棟梁塾卒業生には信頼しあう連帯感がある。第一期に参加した仲間や兄貴分を追って棟梁塾に参加した職方がいる。卒業塾生が専門分野で講師として参加する機会も持てた。祇園祭の鉾の構造調査に参加した後、ご町内でその作事方を続ける塾生もいる。伝統構法の再生へ向かう人のつながりは棟梁塾の貴重な副産物である。 6年間はそれなりに長く、棟梁塾の進展を振り返る事が出来る。塾長個人に蓄えられた力量、伝統構法に対する経験と知識、洞察力と判断力、趣味ではなく責任ある専門の生業とする思い、手軽に儲けてはいけない思い、後進へそれらを伝える思いが塾の屋台骨である。塾長の話の内容や資料は、棟梁塾の期を重ねるごとに膨らんだ。特論の講義は比重を増した。呼び慣わされる「決まりごと」のプライオリティーはより明確になった。伝統構法の全容を語ろうとすることは無理でも、大切なことを大切な順に語る事は出来る。その言葉の多くは昨年に「町家棟梁」として本にまとまった。町家の構造を理解する試みも、学習と並行で改修の実践が進むにつれ、現場の側から明快なジオメトリーが見えてくる。京町家の軸組や土壁の部分と全体のシンプルな関係をブックレットにまとめ、塾でも教材にする事が出来た。 一方、塾の運営はその目標以上に、町家の改修手法や姿勢の問題をご本家で顕在させた。当初からのテキストの一部に虚偽の記述があり、使えないことが露見した。ヒトミ梁の仕口も知らない講師が、土壁の下地はラスカットより木毛版が良いと本気で口走る。塾生の身銭である授業料、そこからの座学の場借用のお礼さえ私物化する。塾とは関係ない場での聞きかじりをつなぎ合わせて「棟梁塾のまとめ」にされてはたまらない。無知やモラルハザードの始末と合わせ、卒業生が塾の運営を自立的、継続的に発展させる道筋に取組むことも塾の再開に向けた課題である。 この6年間は、棟梁塾の進展を大きく超えて、京都での町家の再生・継承の転換期となった。3軒の町家が景観法による初めての景観重要建造物となり、市では新しい景観政策が施行された。伝統的構法の性能評価が国家プロジェクトで始まり、京都市内全域での町家の悉皆調査も行なわれた。「市民が残したい建物や庭園」を汲み上げる制度が設けられ、伝統構法の建物を建築基準法の適用除外とする条例も施行された。伝統構法を含む耐震改修への支援事業も広く行なわれる。町家を巡る慌しい情勢の中で、あぐらをかいている暇は無い。しかし取組む相手はあくまで伝統構法、慌てて道を踏み外す必要はもっと無い。 2012.5.1 |