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京町家再生研究会

民家と町家

木下龍一(再生研理事)
 近年、日本の各地で「民家再生」の機運が盛り上がってきている。周囲の山野、河川より自然素材を採取し加工して材料とし、伝統構法で築いた民家は、日本独自の木造建築であり、その依拠する自然環境や社会的役割(生業)により、多様な平面構成や建築形態を持っている。私達の研究対象である京町家は、その内、京都という歴史的な町や町並の敷地に立地する民家建築の中の一類型だととらえている。
 ところで、20世紀の後四半期に農山村の近代化や都市郊外を開発する為、大都市が膨張し、農山村は過疎化した。無住の民家や老人達しかいない集落が増える一方、大都市では住宅を大量生産するための資源調達やエネルギー不足の問題が発生し、建築廃棄物の激増が地球環境を破壊する危機に瀕している。あまりに短命で非自然な現代住宅の生産規模が上限に達し、何故か民家特有の天然材の質料や風合い、構法へのこだわり、耐久性等に社会の注目が集まり、住宅生産の持続性と信頼性の回復が課題になっている。古民家を現地で再生したり、また他所に移築再生する行為は、それがつくられた構法を再確認し、特有の技術を再生産し伝承する場を提供する。施主、職人、協力者、設計者等プロセスを共有する者全員が、民家の成り立ち、生産技術、保全性能の見直し等を共通認識する機会を持つことが出来る。地球資源のリサイクルや自然環境保護の視点からも、古民家や古材を廃棄せず、木の寿命ある限り、住居や店、仕事場として再利用する活動は、都市と田舎の境を越えて更なる拡がりを持つことと思える。
 最近、改修の為の調査をした町家で、殆ど農家型民家に近いものに出会うことがあった。東寺の西側、御土居通り九条上ル東側にある大塀造の町家である。間口6間、奥行13間の短冊型屋敷地の周囲に高塀を廻らせ、格子門を西に開き乾(北西)の隅に土蔵を持つ。桁行5間半、梁間4間、厨子2階の主屋は妻面のみを路地に接し、敷地のほぼ中央に建っている。西にアプローチの表庭、東に前栽を構える配置は、商いや家業を仕舞った専用住宅としての町家であり、幅1間半の「通り庭」は農作業のための広大な「にわ」につながる趣はない。いわゆる「にわ=土間」と「おいえ=床座」の境の構造形式においても、町家の側にくみし、大小黒柱や門口柱が垂直性を重視している。また、前栽に面して広縁から廊下で浴室便所へ渡る数寄屋の意匠、そしてその背後の裏庭と納屋、更に裏木戸より「おおうら」の空地を経て、北側の路地へ回遊出来る形式は、中京界隈の京町家の構成によく共通している。にもかかわらず、この家の生業は「せり田」を経営した農家であったという。
 一体、農家である京町家とはどういうことであろうか?都市と農村あるいは町家と農家、一見対立する概念として取り扱われる両者が、同時に共存することが歴史都市京都の内部でありえたのではないだろうか? 京都の歴史をひもとく中で、中世末の律令制崩壊の時期に「公道の巷所化」という事態が発生し、道路際の公界を占拠して店小屋が建ち並ぶ現象があらわれた。律令制の街区割を無視して、道を庇の中に取り込み、軒を連ねた町家の様子は「年中行事縁起絵巻」等に描かれている。そして歴史資料の中にその「巷所化」が公界の「宅地化」だけではなくて、「耕地化」として現われた事実を研究者が指摘している。東寺の周辺地域では中世から近世へかけて、荘園制度の存続や自治的地縁共同体の出現の事情が複雑に絡み、商人町や職人町とは異なる状況で町家が形成されたと考えられる。にもかかわらず、この土地の履歴としては平安京の都城域、即ち洛中であり、また天正19年(1591年)豊臣秀吉の御土居構築による京都大改造時に再度、京中として規定された「八条内田町」町内のれっきとした町家敷地である。都市の中に属しながら都市民に供給する京野菜を生産し、商ってきた地域と家共同体の歴史が、この町家の様式や空間構成の特性に深くかかわっていると考えられる。存続する町家が沈黙する文化遺産としてそのことを記録しているに違いない。広範に広がる民家研究の中で京町家がどのような特性を持っているのか、再生研究会の実例研究と背後の歴史文化研究が手を携え、その詳細を明らかにしてゆくことを期待している。

2004.9.1