report◎懐石料理のお店になった大津の町家 ─大津市・「大津 魚忠」磯野英生(成安造形大学教授)
今回は、京都を離れ、大津市京町にある懐石料理を出すお店、大津・魚忠を訪れた。このお店は、旧東海道に面している。間口が広く、姿の美しい、立派な構えだ。ちょうど2時に伺うことになっていたこともあって、庭に面したお座敷に通していただき、店主の橋本忠司氏にお話を伺うことができた。
北側の旧東海道に面した表屋の2室を拝見する。西側の5畳ほどの部屋とその南隣の坪庭は東西に長いやや変則的な構えになっているが、これは道路拡幅の折に表屋を引き、同時に奥行き方向に縮めた結果、そのような部屋ができたのではないかと推測された。東西に長い坪庭もその結果ではないだろうか。軒先を見上げると南北でほとんど接するほどであり、やや圧迫感があるようにも思えるが、意匠的な面で破綻をきたしているようには思えない。前の持ち主は、必死の思いで辻褄が合うように努力されたのではないかと思われた。こうしたことにも、前の持ち主の並々ならぬ普請への愛着が感じられる。2階は表屋の部分が2室客室になっており、1階と同様西側の一室は東西に長い。奥には床の間があるが、床柱が少し細めに造ってあり、よく神経が行き届いている感じがした。天井は細い竿縁天井であった。もう一つの客室は虫籠窓の家特有の斜めになった天井で(もちろん改造してあるが)、またひと味違った部屋となっている。この2室は、大津祭のさいには、窓を開け、眺めることのできる部屋になっているそうである。座敷と次の間の上部には2階がないということは2階を拝見してはじめて判った。こうしたやや複雑な構成はあまり京町家では見ることができなかったが、あるのだろうか。 一通り部屋を拝見して座敷に戻り、また話を伺った。橋本忠司さん(そう、魚忠の忠は、忠司の忠であるらしい)の口からは、しばしば「あと3〜40年すると」とか「100年後には」という言葉が発せられた。こうしたスパンの長い時間を意識して語る人は以外に少ない。数世代に渡る話だからだ。多くの人は自分の生が終われば全て終わりであるという意識が少なからずある。林業家ならいざ知らずである。古いものが好きだということもおっしゃていたが、そういうことだったのだ。 さて、話を変えよう。以前の魚忠は一筋南の通りにあったが、やはり道路拡幅のため立ち退きになり、この家を2年がかりの交渉の末購入されたそうだ。前の持ち主の方も愛着がとても深かったのであろう。このような素晴らしい家なら当然のことだろうと思う。庭は植治の手になるそうである。京都にある大学の庭園研究者がそんなことはないだろうと否定的であったそうだが、植治の領収書があるということも考えると、ありうることだろうと思われた。庭の石の置き方もおかしいとも思えない。前の持ち主の先代が、庭造りに2年、家造りに3年かけたという話を聞けば、大いにあり得ると考えてみるべきではないか。これほどの家を造る人なら、作庭に植治を呼んで造ってもおかしくはない。 話が違った方向に行ってしまった。 前のお店では、一見さんは全く居らず、県庁や市役所、農協関係のお客さんが多く、それ以外では法事などで使われるぐらいであった。女性客もほとんど来ないような状況で、夜だけの営業であった。しかし、今は役所などの関係はほとんどなくなる一方、5、60代の人や女性が多くなり、また夜だけでなく昼も営業するようになったそうである。客層は転居に伴い大きく様変わりした。ちょうど時代の変化と転居の時期がうまく重なったのだろうと思われる。 店主の橋本さんやお茶を接待していただいた大女将であるご母堂の人柄と店の雰囲気を拝見する限り、前の持ち主の方も大いに喜んでおられることだろうと思われた。今度は食事をいただきに再訪を約し、お店を辞した。 最後に、お店の改装を手がけられた設計事務所にふれておきたい。設計は大津市に事務所をおくNPOという名の設計事務所で、主宰は宮原さんという方であると聞いた。橋本さんが器に興味があり、器屋さんに出入りするなかで、紹介されたそうである。施主とパートナーである設計者との幸福な出会いは、良い仕事の前提であると思われた。 2005.5.1
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