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京町家友の会

私の住まいの町名は「骨屋町(ほねやちょう)」、「饅頭屋町(まんじゅうやちょう)

 私は京都の中京区(なかぎょうく)、六角通(ろっかくどお)り烏丸(からすま)を西に入った町内に住んでいます。町名は「骨屋町(ほねやちょう)」と申します。この町内は、烏丸通りと室町通りの間の六角通りに面した北側、南側の家並みで成り立っています。向かい合う両側併せて二十軒程の町内です。
 「骨屋町(ほねやちょう)」の「骨(ほね)」と聞いて大方の人が、奇怪(きっかい)な感じを持たれるのか、必ず聞き直されます。
 「ホネ」とはあの「骨」の「骨」ですか?
 そうです。「コツ」の「骨」です。
 ヘエ−!?  と驚いた顔があります。
そこで説明をします。「ホネ」は「骨」なのですが、骨は骨でも「扇骨(せんこつ)」なのです。「扇(おうぎ)」の骨、或いは「扇子(せんす)」、「団扇(うちわ)」の骨の部分の「骨」なのです。この「扇骨」を専門に作る職業、職人の集団が、かつて住まいをしていた町内であったとのことです。
 それでは、現在この町内に、「扇」に関連しているお宅があるかと云えば、一軒もありません。
  遡って、明治維新直前の元治元年(一八六四)禁門の変で、この辺りはすべて焼け野原になったのですが、当町内にある古文書に、焼ける直前の「骨屋町町並図」が残っています。その「元治元年甲子歳京洛大火以前ノ町住者概畧」を見ると、その時にも「扇骨」に関わる職種の家は一軒もありません。
 烏丸から六角通りを入ると、先づ木戸があり、木戸内南側に「番子部屋」、北側に「地蔵堂」が見えます。そこから奥へ鍛冶屋、薬種商、金貸商、豆腐屋、その他種々の業種三十軒が軒を並べていますが、「扇骨屋」さんは見あたりません。
 当時からこの町内は、祇園祭「浄妙山」の山町でもありましたから、この「図」の肩書きに「骨屋町、当時ハ浄妙山町ト多ク云ヘリ」とも書いてあります。
 更に昔のことになりますが、戦国時代の終わり、豊臣秀吉が京都に入って聚楽第や、御土居の構築を進めましたが、天正十四年(一五八六)洛中の街並み改造にもかかりました。当時の町割りは百米余の四角の区画だったのですが、南北中央に通りを入れて、そこに住民を住まわせました。勿論その通りに両替町、衣棚、釜座等々の新しい通り名を付けましたが、更にそこに新しい町名をも付けました。あちこちにある突抜町(つきぬけちょう)は正しくこの時代の象徴的な町名の一つです。
  しかし秀吉の南北割りは、大体北から三条通りで止まっていますので、その時には「骨屋町」は既に存在しておったのではないかと考えます。
 一方、平安京が建都されて間もなく始まった祇園会祭礼は、次々と変遷を経て、室町時代の中頃には、現在の姿の山鉾が大体出来上がっていたと考えられます。その証拠は史実として残っています。十五世紀後半、十年余り続いた応仁の乱で京都は殆ど壊滅状態になったのですが、ご多聞に漏れず祇園祭山鉾も全滅しました。記録では山鉾五十八基が焼失したとありますし、勿論「浄妙山」もその中の一基でした。
  かくて、「長刀鉾町」「橋弁慶山町」「鯉山町」等のように、現在山鉾の名を取って町名としている町内が結構多く見られますが、恐らく室町時代中期には、既に町名として存在していたと考えてもよいと思います。
  さて、「骨屋町」は六角通りに面した町内ですが、その東、烏丸通りに面した町内は「饅頭屋町」と申します。私の家の敷地裏東角地は、この「饅頭屋町」にかかっています。つまり「骨屋町」と「饅頭屋町」の二筆の土地の上に、わが家が建っていることになります。
 烏丸通りに面した「饅頭屋町」には、現在、銀行、保険会社、池坊ビル等が建ち並び、この町名にゆかり縁のある家は何もありません。
  「骨屋町」と云い「饅頭屋町」と云い、一体何時からこうした町名が付けられたのでしょうか。京都には、特に中京、下京にこうした「◯◯屋町」と云う町名が随分多いようですが、どうしてこうなったのでしょうか。
  先づ考えられるのは、当時の京都でこれらの職能集団が必要であり、ここで盛んにそれぞれの生産、商取引が続けられていたと云うことです。わざわざ集められたのか、自然に集まる形になったのかは判りませんが、かくして「町名」が発生したものに間違いありません。
 室町幕府なのか、もっと古く平安朝廷なのか、何れにしろ有職故実に則って儀式典礼に献上された有職品の数々が、これらの町内で調達されていたと考えられます。職能を通じて京都の歴史を支えて来た人達の、日々の営みや息吹きを感ぜずにはおられません。
 「京町家友の会」の第十五回例会は、二月二日(日)京都北野上七軒の「老松」で、お饅頭作りを愉しみながら、京都の暮らしの四季情緒を、和菓子を通じて感じ取る時間を持ちました。作り方を教えていただきながら、ふと、私の住まいの町名の一つ「饅頭屋町」を思い出しました。
  京都の人達は、七百年、千年の前からこの「町名」が由来する何かの流れを、現在も、きっと感じているに違いありません。