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京町家友の会

梅の木「思いのまま」
 昭和から平成に代わってしばらく経った三年(1991年)、押し詰まった師走の二十五日、北野の「終い天神さん」に、家内と連れだってお参りに行きました。小雪の散らつく寒い日でしたが、人出も多く、先づお参りを済ませました。それから引き返していつもの通り店屋の並ぶ参道を縫って歩き、そのあと西側の植木市の方へ足を延ばしました。 「梅」の木が欲しかったのです。
 昭和の終わり、六十二年に、私の母が一年余り患って亡くなり(父は既に昭和五十六年に逝く)、今まで父母のためにあった離れが空き家となりました。この離れは昭和の四十年代に新築したものでしたが、その時既に、建てた頃出始めた新建材のせいか、雨漏りはする、壁際はすく、建具はガタつく、いいことなしになっていました。思いきって取り壊して、元の姿である庭と廊下に戻すことにしました。お陰様で、庭の部分は広くなり、ゆとりが出来たのですが、オットどっこい何だかそこが気の抜けたような「空白」を感じるのです。やはり植木一本、これはと云うものを植えなければなりません。
 何の木にするか?「松」は既に父の代からの「座敷松」があります。「竹」は「笹」が機嫌良く育っています。だからいっそうのこと「松竹梅」を揃えることとして、この際「梅」にしようと決心していました。
  さて、天神さんの植木市のおっさん達をひやかしながら歩いていると、人の良さそうな中年の植木職人さんに声をかけられました。
  「何か欲しいのか?」
 「ウ−ン、梅が欲しい」
 早速叱られました。
 「今頃、梅を買いに来るアホがおるか! 梅は咲いているのを見て買わなアカン。二月の中頃になったら電話をして上げるから、茨木のわしんとこの庭に見に来ないか」 と云われてしまいました。
  明けてその二月、連絡が入ったので早速茨木まで出かけました。その時そこで、沢山の種類の梅がある中で、特に家内の気に入りで決めた「梅」が、現在私の庭で育っている梅の木「思いのまま」なのです。その頃、三十年生と云っていましたから、現在やっと四十年生を越えたところ、壮年期とも云うべきまだまだ若い「梅」ですが、この「梅の木」の種は「思いのまま」と申します。
  「思いのまま」とは、「輪違い梅」の一種であり、一本の樹でありながら枝によって色が違うのです。例えば、私の家の梅は、八重咲きで、淡紅色、紅色、そして絞り(一つの花で淡紅色と紅色の花びらが混じる)の三種類が枝によって違うのです。そして年によって少しづつその位置が違うのです。
 
 「思いのまま」と名付けてあるこの種は、決して接ぎ木ではありません。歴とした「梅の種」であり、珍しいのですが、各地に僅かずつあります。
 水戸の偕楽園は梅林で有名ですが、その一角にある「好文亭」に入ったすぐ右手に、やはり輪違い梅「思いのまま」があります。この梅も八重咲きで、花の色は白、淡紅、紅色、絞りの四種類が枝によって咲き分けるもの、普通は盆栽で小さなものが愛好されているのですが、これだけ大きいものは珍しいと駒形札に書いてありました。この梅を見られた方はおられると思います。私も一度その季節に出かけたのですが、偶々時季が早かったのか、咲き揃っているのを見ることが出来ませんでした。
  この他、京都二条城の梅林に過日出かけた時、百本程ある中に一本だけ、少々小振りのものですが、「思いのまま」を見付けました。
  京都では、他に北野の天神さんに四、五本、又植物園にもあるとか聞いています。大阪城梅林にも確か二、三本ありました。この梅は「実梅」ではありませんので、咲き終わってから「実」はなりません。
 どちらかと云えば遅咲きですが、二月も末近くなるとぼつぼつ咲き出しますし、結構良い香りを出しますので、朝早くから、「鶯」や「目白」の番がやって来ます。どうして判るのか、きっと匂いを嗅いで来るのでしょう、毎年必ずやって来ます。御所からやって来るのではないかと噂をしています。
 俳句をやる友人がこの梅を見に来て一句、
      老梅の 思いのままに 彩をかえ    (てるお)
      紅白を 思いのままの 古梅かな    (一彦)
  「梅の木」はまだまだ老梅でも古梅でもないのですが、私に対して老境を揶揄して詠んだのかも知れません。
  京都の町家には、敷地の中に庭を設けるのが通常となっています。私の家にも「玄関庭」そして表屋と母屋との間の「中庭」、座敷の奥に「奥庭」、蔵の後に「裏庭」があります。建物の間々に緑の前栽や石組を見ると、何か気分的にホッと致します。
 廻りはビルばかり、ビルの谷間にいささかこだわって住まいをしているのですが、こうした庭々は少しでも自然に接する機会だと思い大切に手入れをしています。そして、例えば夏の日盛りに打ち水をして涼風を起こし、暑さを凌ぐ知恵を用意して呉れるのもこの庭の効用です。
 幸いこの国には、春夏秋冬、四季があります。これらの庭々の草木が、姿形でいち早く季節の移り変わりを教えて呉れます。ここ十年余りは、この梅「思いのまま」の咲き振りを見て、厳しい冬の最中とはいえ、もうそこに春が来ていることを感ずることが出来るようになりました。
  こちら人間の方の「思いのまま」ではなくて、梅自身の「思いのまま」に咲くことに、計り知れない自然の不思議さを感じます。
 「ああもしたい、こうもしたい」とは思いますが、なかなか思い通りにならない昨今、「梅の木」の方からの「思いのまま」の気持ちを聞けるものなら、聞きたいものです。

(平成十五・三・二十記)